掲載時肩書 | 日本郵船会長 |
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掲載期間 | 1984/06/25〜1984/07/20 |
出身地 | 宮城県仙台 |
生年月日 | 1912/03/01 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 二高 |
入社 | 日本郵船 |
配偶者 | 見合:会社創設者娘 |
主な仕事 | 欧州海運同盟派遣、社会思想研究会、氷川丸係留、S42コンテナ船就航、日本船主協会長、日本貨物航空、 |
恩師・恩人 | 土井晩翠、河合栄治郎、中山素平 |
人脈 | 大槻文平・武田豊・土屋清(河合ゼミ)、浅尾社長>児玉>有吉>菊池、前川春雄、猪木正道、武田豊 |
備考 | 父:庄屋 |
明治45(1912)年3月1日~昭和59(1984)年8月31日)は宮城県生まれ。昭和期の実業家 元・日本郵船社長。53年会長。低成長時代にそなえ保有タンカーを削減して海運不況をきりぬけ,電力用炭の輸送に進出,「菊地商法」とよばれる合理的な経営手腕を発揮した。この間、日本船主協会会長や経済同友会副代表幹事、日本経営者団体連盟常任理事を歴任。51年経済団体連合会常任理事、57年日本開発銀行参与。
1.土井晩翠先生
昭和の初め(1926)に私は仙台の二高に入学した。私の読書熱に方向をつけてくださったのが、土井晩翠先生である。先生はその頃、60歳の定年も近かったが、まだまだ元気で二高の名物教授の一人だった。今では「荒城の月」が有名すぎて、藤村と並ぶ明治の代表的詩人として知られているが、実はこれに加うるに大変な学者であり、また情熱的な教育者でもあった。高校では英語を担当、ラスキンやカーライル、シエークスピアなどの著作を教材としておられた。
講義は実に魅力的で、談論風発、あるいはゲーテの「ファースト」を論じ、あるいは諸葛孔明を詠った「星落秋風五丈原」「天地友情」の場面を説明したり、杜甫、李白の詩を吟じて見せたりなさった。70を過ぎてからギリシャの詩人ホーマーの「イリアス」と「オデュッセイア」を邦訳されたことでも分かるように、学のレパートリーの大変広い方であった。余談だが、語学に熟達されていた先生も英語の発音は仙台弁であった。従って私の英語はいまだ仙台弁である。二高の校歌は先生の作で、学生の学問への情熱を表している。
2.ドイツの敗戦と日本の敗戦の状態違い
私はこの両方を目の当たりに体験した。ドイツに着任して半年後の昭和16年6月、ヒットラーはソ連に侵攻を開始した。ドイツの占領地域が拡大するにつれて、ドイツの青壮年層は大部分が、ある者は東部戦線に、またある者は占領地域に駆り出され、国内にはたまたま帰省中の軍人が見受けられる程度だった。
うら若い女性たちが、国内の軍事工場に動員され、ドイツ人独特の勤勉さで男子青年層の仕事を代行していたが、そうした総力戦の体制下でも女性は毛皮のオーバーにスカートという平時と変わらない身なりで、仕事から解放されると自由に遊び回っていた。日本は「欲しがりません、勝つまでは」式の気構えで全生活を国のために捧げるのを当然とする空気であったし、また男女7歳にして席を同じぅせずという時代にあったに比べ、ドイツの女性たちの考え方は私には驚きであった。
昭和18年〈1943〉以降のベルリンは、空襲がない日はなかったほどで、有名な“絨毯爆撃”がはじまった。爆弾もそれまでの5百キロ爆弾から4トン爆弾に変わって、落下地点の100m四方くらいは5階建てのビルが爆風でみなペシャンコの瓦礫になる。大変な威力の爆撃で、日本での空爆が焼夷弾中心であったのに比べ、威力において大変な違いがあった。また英国から発進してくる編隊の第一波がベルリンを襲撃中には、第4波が英仏海峡の上空に差し掛かっているという執拗な空襲で、市民の間には次第に絶望感が広がっていった。敗色濃厚になるにつれ、社会不安の根を除くためか、ユダヤ人迫害が強まっていった。
3.コンテナ船の導入
昭和42年(1967)9月、“第二の黒船”と海運界を騒がせた米国の本格的なコンテナ船が、東京・品川の岸壁に着岸した。太平洋航路で郵船と提携したマトソン社の船であるが、翌年8月には、郵船が日本船では初めてのコンテナ船・箱根丸を就航させた。定期航路に一大改革をもたらしたコンテナリゼーションの始まりである。コンテナ化という技術革新が起こった背景には、港の荷役労働者の賃金が高騰したこと、船舶の航行速度が上昇したことなどがある。それまでの船舶は雨中は荷役が出来ぬので、1年のうち6割にも相当する200日くらいも港に停泊しており、そのため船の高速化もあまり効果を発揮し得ないという悩みがあったが、コンテナ化でこの問題が解決した。太平洋航路での郵船シエアは日本で最大となったのだった。