掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1965/09/17〜1965/10/14 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1897/05/04 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高仏 |
入社 | 代用教員、農商務省 |
配偶者 | 社長娘 |
主な仕事 | 父・天理教に財産を寄付、天理教否定・破門、仏留学療養3年、文学志向に、「ブルジョア」「人間の運命」 |
恩師・恩人 | 軍人から教育費、前田千寸先生、砂崎徳三校長、石丸氏 |
人脈 | 船成金(緒明圭造)、有島武郎(草の葉)、菊池勇夫、横田喜三郎、岡野喜一郎、池島信平、石川達三、 |
備考 | 次郎長の遺児Yさん |
1896年(明治29年)5月4日 – 1993年(平成5年)3月23日)は静岡県生まれ。小説家。仏留学後、『ブルジョア』で出発。『巴里に死す』で注目された。作品は父性希求、天理教を主題にしたもの、日本と西洋の対比やその矛盾を追究するものの系列があり、冷徹な目を据えながら、生と死、愛の問題を扱った主知的ヒューマニズム作家。日本よりもむしろ海外(特にフランス)で高い評価を受け、後年しばしばノーベル文学賞候補と噂された。晩年には、「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」との信念に拠り、”神シリーズ”と呼ばれる、神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描いた。
1.明治末には人身売買が
明治の末には日本全体が貧しかった。私の村では、女の子は口べらしのために、小学校を出ると、子守か、女工かになって村を出たし、東京にも売られても行った。女の子は漁師にできないからだった。その代わりに、男の子を買った。男の子が公然と売買された。毎年2回、男の子を20人ばかり連れて、売りに来る人があった。子供は年齢や体格によって、値段が違い、10円から20円ぐらいであった。買われた松雄は、10円松っちゃん、15円で買われた太郎は、15円の太郎ちゃんというように。
買われた子は、義務教育を終わっていなくても、小学校にはやらず、沖に連れて行った。徴兵検査まで働いて、次の一年間、沖へ出て稼いだものを貰って独立する習慣であった。子供を買う希望者が多くて、1,2年前から前金で申し込んでおかなければ、変えない有様であった。買われてきた子は、魚を食べられることがうれしいとも、ご飯が食べられるから幸せだとも、言った。私の貧しい漁村よりも、もっと貧困な村が、よそにあることを、私は売られてくる子供によって知った。
2.小説家の社会的地位
私が一高、東大を出て、農商務省に勤め、高等事務官になり、中央大学で貨幣論を講義する立場になった。総合雑誌「改造」に応募した「ブルジョア」が一等に当選した時、小説家になろうと決意した。
私が小説家になるということは、周囲に混乱を起こした。特に妻の家では狼狽した。岳父は名古屋鉄道の社長であったが、原稿料を払うから、小説を発表するのは止めてくれと言った。名古屋に来て、仕事を手伝えば、安楽に暮らせるからと、それを勧めた。
朝日新聞の夕刊に小説を発表したことで、中央大学を辞めなければならない仕儀になった。経済学の先生が、小説を書くというのは、大学の不名誉でもあり、学生に悪い影響を与えると、大学当局は考えた。そんな時代だったのだろう。処女作を発表して間もない者が、朝日新聞に夕刊小説を書くということは、文壇では稀有なことで、いろいろ取沙汰されたそうだが、私は10年間、病人として療養生活をしていたので、誰にも会わず、文壇的な付き合いもしなかったから、そんなことも、全く知らなかった。
3.「私の履歴書」のさまざまな読者反響
私の故郷の部落に、男の子を売りに来たということを、信じかねる読者が多かった。しかし、それは事実であった。甲州屋遠州の農村の子供を買い集めては、10数人連れて、年に2回売りに来る男があった。人買いであろう。中学2年の時であったが、叔母がその人買いから男の子を買うのだから、一緒に来て、買う子供の選択を助けるようにと、無理に連れていかれて、その人買いと売られる少年の群れを見た。その時の光景を今も鮮やかに覚えている。
この「履歴書」が15回ほど連載された時、愛知県岡崎の未知の人から電話があった。その人は、5歳で買われて3年間、どんなにひどい目にあったか、わけもなく手に灸をすえられたり、殴られて生傷が絶えなかったなどを、話した。そして、この人の祖父さんが毎夜孫がいじめられている悪夢を見つづけて、半年後、買い戻そうとしたが、どこへ売られたか、行方が分からずに、警察に頼んだりして、3年近くかかってやっと、家に帰ったとも話してくれた。
芹沢 光治良 (せりざわ こうじろう) | |
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1956年頃撮影 | |
誕生 | 芹澤 光治良 (せりざわ みつじろう)[1] 1896年5月4日 日本・静岡県駿東郡楊原村我入道 (現・沼津市我入道) |
死没 | 1993年3月23日(96歳没) 日本・東京都中野区東中野 |
墓地 | 日本・静岡県沼津市 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(経済学) |
最終学歴 | 東京帝国大学経済学部 |
活動期間 | 1930年 - 1993年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 | 『ブルジョア』(1930年) 『愛と死の書』(1933年) 『巴里に死す』(1943年) 『一つの世界』(1955年) 『人間の運命』(1962年 - 1968年) 『神の微笑』(1986年) |
主な受賞歴 | 友好大賞(フランス)(1957年) フランス友好国大賞(1959年) 芸術選奨(1965年) 勲三等瑞宝章(1967年)[2] 日本芸術院賞(1969年) フランス芸術文化勲章(コマンドゥール賞)(1974年) |
デビュー作 | 『ブルジョア』(1930年) |
配偶者 | 芹沢 金江(せりざわ かなえ) (1925年4月結婚-1982年2月病没)[1](旧姓・藍川) |
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芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は日本の小説家。静岡県沼津市名誉市民(1980年‐ )[3][4]。1965年‐1974年に日本ペンクラブ会長を務めた[5]。日本芸術院会員。