掲載時肩書 | 電電公社総裁 |
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掲載期間 | 1976/06/01〜1976/06/26 |
出身地 | 長野県 |
生年月日 | 1911/02/01 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 東京高 |
入社 | 逓信省 |
配偶者 | 貴族議員 娘(津田塾22歳) |
主な仕事 | 工務局、津軽海峡無線完成、飛行機遭難、米国視察、電電公社(佐藤首相)、東大講師17年、技師長、欧米視察 |
恩師・恩人 | 大橋八郎総裁 |
人脈 | 地主千畝、松前重義(無線ケーブル)、西山千、山崎佐、梶井剛(初総裁)、西堀栄三郎、大来佐武郎、石原周夫 |
備考 | 父:逓信省技師長、趣味:運勢占い |
1911年2月1日 – 1999年5月2日)は長野県生まれ。官僚、通信技術者。超短波電波による無線多重電話方式を提唱し、1940年に世界に先駆けて実用化。また、通信設備の保全を合理化するため、初めて統計的品質管理方式を導入。電気通信研究所の所長時代には、電信電話の近代化に貢献した。日本電信電話公社総裁、経済団体連合会理事、電気通信協会長などを歴任。
1.新しい電話方式の研究
昭和8年(1933)に私は逓信省に入った。私の職場は無線化調査係というところで、松前重義博士(現東海大総長)が主任で、その下で無装荷ケーブルによる新しい電話方式の開発と建設計画に取組んでいた。昭和10年(1935)ごろの電話は、日本全国で87万台(現在約3千万台)で、ごく一部の国民の所有物であった。東京でも山手線の内側が自動で、外側はいちいち交換手に申し込むころであり、それ以遠は待たされた上に、よく聞き取れないということが当たり前であった。
当時、短波無線を使った電話は質が悪く、短波は多重電話回線には不適当であるという考えが常識であり、超短波を使って多数の電話回線をとろうという多重電話方式は極めて飛躍した考えであった。このため、無線に比べ回線の質の良いケーブルを担当しているいわば“ケーブル派”と意見の対立することも多かったが、私は幸いに無線、ケーブルの両方とも手掛けたことがあったので、両者の調整役を買って出た。
2.高性能電話機の開発成功
電波ではよく「信号対雑音比」(S/N比)という言葉が出てくる。これは信号と雑音の比率を示す言葉で、この比率が高いほど雑音が少なくて、音質が良いということを示す。当時、主として電話回線に使われていたS/N比は30デシベルであり、これをこのまま電話に使用した場合、非常に雑音の多い電話となる。そこで、主としてケーブル回線並みに改良するには、S/N比を倍の60デシベルにレベルアップする必要があった。
数字の上ではたったの2倍だが、これは雑音のエネルギーを9百分の一に落とすことで、至難の技術であった。それを関係者の非常な努力と工夫で、我々の要求する雑音の少ない、しかも安定した無線機器の開発に成功、こうして日本、いな世界の超短波多重電話の実用回線が津軽海峡に完成したのである。昭和11年の実験開始からまる4年かかっていた。この技術が、全国の電話網方式に繋がり、現在、世界の最先端を行く日本のマイクロウェーブ通信方式へと発展していくわけである。
3.飛行機遭難(九死に一生を得る)
結婚して4月後の昭和15年(1940)2月、日航機「阿蘇号」で台北に出張途中、遭難、九死に一生を得た。当時私は逓信省工務局の技師で航空無線主任をしており、ラジオビーコンの実験のため、那覇から台湾に向かっていた。日本航空の定期便で、機種はDC2型機(双発プロペラ)、乗客は9人であった。
離陸後1時間半ぐらいたったころ、窓から見えていた右エンジンの回転が急に落ち、プロペラの羽根が見えるくらいになった。変だと思う間もなく、郵便物をのぞく、客室内の乗客の荷物はすべて海に投げ捨てるよう、指示を受けた。そこで私は乗降口のドアを手で押し開けようと試みたが、風圧がかかっていてなかなか開かない。ようやく少し隙間を作ることができ、他の乗客が運んでくる荷物を次から次へと足で蹴飛ばすように投下した。
「着水するからバンドを締めてください」との合図があって間もなく、強いショックに続いて「ジャー、ザー、ザー」というような音がして着水した。操縦席の上方にある非常口から一人ずつ、外に出るように言われ、胴体の上に出た。外に出てみると、大きな岩だらけの海岸に不時着したことが分かった。機体の浮かんでいるところは、大きな岩のすぐそばで、私は後ろからせっつかれて海に飛び込み、海岸にたどり着いた。ここは尖閣諸島の無人島、魚釣島であった。助かったが、以来すっかり飛行機嫌いになった。