掲載時肩書 | 文楽太夫 |
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掲載期間 | 1999/04/01〜1999/04/30 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1924/10/28 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 近畿大学 |
学歴その他 | 浪花商業高 |
入社 | 21歳文楽入門 |
配偶者 | 三味線 師匠娘 |
主な仕事 | 文楽(語り、三味線、人形)、父と組合、師匠と分裂、父子国宝2代、両組合の若手勉強会、外国公演、映画出演、 |
恩師・恩人 | 山城少掾 (豊竹),高田好胤 |
人脈 | 松竹、桐竹紋十郎(人形)、竹本綱太夫、鶴沢清六(三味線)、襲名(扇子、手ぬぐい)、喜左衛門(三味線)、越路大夫 |
備考 | 母の姉 に養子, 養父・竹本住太夫 |
(1924年10月28日 – 2018年4月28日)は大阪生まれ。6代目の養子。義太夫節の太夫。2代目豊竹古靱太夫(のちの豊竹山城少掾)に入門。1960年、9代目竹本文字太夫を襲名、1985年、7代目住太夫を襲名、同年、モービル音楽賞(邦楽部門)受賞。1989年、重要無形文化財保持者(人間国宝:親子二代)に認定される。
1.文楽の見どころ
文楽は人形浄瑠璃といいますし、人形に目がいきます。時には人間以上に繊細な動きを見せ、まさにこの世のものではない美しさに魅せられます。その人形に生命を与え、魂を吹き込むのは人形遣いですが、さらに生き生きとさせるのは大夫と三味線です。これが舞台を生かすので、これがないと文楽は台無しです。
ですから、以前は浄瑠璃は見に行くものではなく、聴きに行くといったもんです。人形遣いの文五郎師匠は、「文楽がはやるかどうかは大夫次第や。大夫がしっかりしてたら三味線も弾けるし、人形も遣える。だから、しっかりしいや」。と申しましても、ここで泣かせてやろうとか、笑わせてやろうとか思ったらあきません。
2.文楽の掾号とは
文楽に入門して1年近くたちました昭和22年(1947)3月、私の師匠、豊竹古靭(こうつぼ)大夫に秩父宮家から掾号が与えられました。豊竹山城掾(やましろのじょう)となられました。師匠は京都におりましたので山城というわけです。文楽の芸能社会での地位を示すものでございまして、大掾、掾、小掾と3段階です。ただし、一代限りで、子供や弟子が継ぐことはできません。明治時代、竹本春大夫師(二代目越路大夫)が小松宮家から摂津大掾という名前をいただいておられます。
人形遣いでは後に吉田文五郎師が難波掾(なにわのじょう)になられました。現在は誰もおられません。
3.襲名時の引き立てのありがたさ
昭和34年(1959)1月、父の6代目竹本住大夫が死去し、私の師匠の山城掾師も引退されました。私も文楽に入門して10年を超え、多少の自信のようなものが芽生えてきました。翌35年1月に道頓堀文楽座で九代目文字大夫を襲名させていただくことになりました。しかし、出し物が難役の「阿古屋」でしたから、「私にはまだやれません。他のものに替えてください」と野沢喜左衛門師匠に頼みました。
すると師匠は、「失敗してもかまへん。文字大夫はまだ未熟やったな、ですむ。偉うなって恥かいたら難儀やで」と言われました。桐竹紋十郎師も「わてが人形遣うてあげまんがな」。そないまでいうてくれる幸せをかみしめました。
さて初日、紋十郎師の人形がすうーっと舞台に登場しただけで、風圧というかこちらに迫ってくるものがあるんです。喜左衛門師匠の三味線がふだん出ん声まで出させてくれはります。越路大夫兄さんが重忠となって引き立ててくれます。これが襲名というもんや、とつくづく思うたことでした。
4.海外公演
昭和37年(1962)3月に初めて海外公演を行いました。渡航メンバーは、大夫は越路大夫、津大夫両兄さん、三味線は鶴沢寛治、野沢喜左衛門両師匠、人形は桐竹紋十郎、吉田玉市両師匠らで、若手では私や蓑助君に文雀君、織の大夫君、総勢で22人ですから、そんなに多くありません。
公演は君が代とアメリカ国歌の演奏で始まりました。出し物はわかりやすく、華やかで三味線がきれい、そして人形の動きがあるものということで、「寿式三番叟」「壷坂観音霊験記」「義経千本桜」あたりに落ち着きました。「壷坂・・」が一番受けたのは、目が見えない夫が妻を愛するあまり自殺を図り、妻もまた悲しんで後を追うという夫婦の情愛のストーリーに抵抗がなかったんでしょう。