掲載時肩書 | 八幡製鉄社長 |
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掲載期間 | 1965/03/18〜1965/04/13 |
出身地 | 東京都西銀座 |
生年月日 | 1904/01/02 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 62 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 二高 |
入社 | 商工省 |
配偶者 | 父の推薦妓 |
主な仕事 | 八幡製鉄所、日本製鉄㈱、日本鋼材連合会、新日鉄、社長・会長・経団連会長 |
恩師・恩人 | 八幡製鉄中井長官、鈴木英雄 |
人脈 | 南好雄(同期)北村洋二(鮎川義介義弟)田中俊夫・漆山一(赤城四人)、渡辺義介、永野重雄、知己恩人多数列挙 |
備考 | 家業:稲山銀行、父・遊び上手 |
1904年(明治37年)1月2日 – 1987年(昭和62年)10月9日)は東京生まれ。実業家、財界人。稲山は新日鉄の初代社長(1970年~1973年)、会長(1973年~1981年)を務めたのち、1980年土光敏夫の後継として第5代経団連会長に就任する。1980年代より欧州・米国との間で貿易摩擦問題が発生したが、稲山は国際協調を重視し「我慢の哲学」を押し出して自動車・VTR等の輸出自主規制を指導した。また「増税なき財政再建」を目指すべく「行革推進5人委員会」のメンバーとなり、土光臨調をバックアップした。銀行頭取の御曹司だけあり、若い頃から小唄・常盤津節をたしなむなど洒脱であったが、私生活は質素であり、死去まで約40年近く世田谷の新日鉄社宅に住み続けた。
1.父の花柳界指導
父が私を初めて花柳界へ誘ってくれたのは、確か大学2年のときであった。ごくさばけた人で、男の子はむろん、女の子も嫁入り直前には必ず吉原の引き手茶屋に見学かたがた連れて行ったものである。そうして、雛妓(おしゃく)に踊らせ、太鼓をたたいて遊んで見せる。男の遊びというものは、女が考えているようなものではない、ということを知らせて、暗に嫁入り後のご亭主のあしらい方を教えようとしたのであろう。
私が初めて連れて行ってもらったのは、両国の橋ぎわにある「生稲」という料亭で、私の学友5、6人と一緒だった。父が真っ先に立って歌って聞かせる。踊ってみせる。さては総勢立ち上がって総踊りのけいこ。親子の隔てもなく、歳も地位も乗り越えてのひとときこそ、遊びの神髄だと思う。父はそのとき、2つ目の遊びを授けた。「遊ぶときは一生懸命遊びなさい。10円の金を払うなら、10円分遊ばなければいけない。10円払って7円か8円分しか遊べない人はお金の値打ちを知らない人だ」と。
もう一つ、遊びに関して私が父に感心したことがある。柳橋に行くのに父は決して「円タク」に乗らない。遊びに行くのに急ぐことはない、と言いながらテクテク銀座通りまで歩いて、市電かバスに乗っていくのである。もちろん帰りは晩いから、やむを得ずハイヤーに乗るのだが、1銭の無駄使いもしなかった。
2.妻は父が選んだ妓に
私の八幡時代は25歳から30歳までの青春時代であった。父は間違いの起こらぬうちに身を固めさせなければならないと思ったのだろう、それからの父は遊びについて本格的な誘導を私に始めた。「素人の娘さんと関係したら必ずその人と結婚しなければいけない。玄人(くろうと)とは素性を選んで付合いなさい」というのが父の基本方針である。
ある日、私と友人数人を連れて料亭に行き、例の如く心置きなく遊んだ帰りの車の中で「よしや、遊ぶならきょうの連中と遊べ。あの妓(こ)たちなら間違いない」と折り紙をつけてくれた。まるで油紙に火がついたようなものだ。それから、まもなく昇給した85円の給料と、父からもらう50円を懐に、一切の無駄を排除して、父の推薦した候補者の中から一人を心で決めるや、まっしぐらに突進した。それが今の家内ツルである。
3.日本製鉄の発足
昭和9年(1934)2月1日、官営八幡製鉄所を枢軸として、輪西製鉄、釜石鉱山、三菱製鉄(朝鮮の兼二浦製鉄所)、富士製鋼、九州製鋼各株式会社の一所5社の合併会社として日本製鉄株式会社が発足した。本社は東京丸ノ内の郵船ビルに置かれ、初代社長兼会長に中井製鉄所長官が就任、重役陣には合併各社の代表の他に、政府の持ち株を代表して、陸・海と商工、大蔵、鉄道の各省から選ばれた人々が顔を並べていた。私は本省に戻るか日鉄に行くかの選択権があったが、上司から「日鉄に行ってくれるね」の言葉で、販売第4課長の辞令をもらった。渡辺義介さんは重役として八幡製鉄所長に、永野重雄さんは富士製鋼から入られて、富士製鋼所長に任命された。そして私の上司である販売部長には北村保太郎さん、同次長には三井鉱山の重役であった阿部雅雄さんが据えられた。