掲載時肩書 | トヨタ自動車販売社長 |
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掲載期間 | 1974/08/19〜1974/09/16 |
出身地 | 愛知県横須賀 |
生年月日 | 1898/07/09 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | |
入社 | 三井物産 |
配偶者 | 神谷家養子 |
主な仕事 | シアトル、倫敦、神谷商事設立、日本GM、豊田自動織機、トヨタ金融、トヨタ自販、日本・インドネシア石油、名古屋放送 |
恩師・恩人 | 岡本藤次郎、豊田喜一郎、高梨壮夫(日銀) |
人脈 | 石田礼助(シアトル所長)山口昇(日の出)、石田退三、加藤誠之助、花崎鹿之助、豊田英二、川又克二 |
備考 | 銘「人生、重荷を負うて遠き坂道」 |
1898年〈明治31年〉7月9日 – 1980年〈昭和55年〉12月25日)は愛知県生まれ。実業家。トヨタ自動車販売(現・トヨタ自動車営業部門)社長・会長・名誉会長、名古屋放送(現:名古屋テレビ放送)初代社長等を歴任した。トヨタ自動車系ディーラーの礎を一代で築き上げ、その豪腕から「販売の神様」と称された。また、1970年(昭和45年)には、神谷の発願によりトヨタ自動車関係者らが寄進して、交通安全の祈願と交通事故遭難者の慰霊のため、長野県茅野市に蓼科山聖光寺を創建した。
1.豊田喜一郎氏と初面談
昭和10年(1935)、豊田自動織機が自動車の生産に乗り出すため、同社社長・豊田喜一郎氏から入社を勧誘された。わたくしは、発明王豊田佐吉の長男で、中京経済界では今を時めく豊田財閥の御曹司に会うので少し緊張した。しかし喜一郎氏の第一印象は、温厚で、朴訥な紳士という感じで好感が持てた。
喜一郎氏は挨拶もそこそこに、国産車確立にかける氏の情熱をとつとつと、熱意を込めて語られた。そして、驚いたことに「優秀な技術者を集めてあるから、つくる方は何とかなる。しかし、販売について知っているものは一人もいない。神谷さん、あなたがもし豊田に来てくれるなら、販売は一切君に任せてもいい」と言い切られたのだ。その熱意に動かされて、給与600万ドルの日本GM社から、報酬が5分の1の120万ドルになる豊田に転職したのだった。
2.トヨタ自動車工業の発足
昭和12年(1937)8月に、新会社は豊田自動織機製作所が所有する自動車製造事業及びこれに付帯する一切の物件を譲り受けて本格的に自動車生産に乗り出した。初代社長には、豊田家の長老格であった豊田利三郎氏が就任し、喜一郎氏は副社長となったが、実質的には喜一郎氏が最高責任者であった。氏の推挙により、取締役販売部長に遇せられた。販売部を組織するに当たっては、わたくしは日本GMの組織を参考にした。トヨタ自工の設立に先立ち、喜一郎氏は前年の11年に自動車の月賦販売を行うトヨタ金融を設立した。
3.トヨタ販売網の構築
トヨタ自工は、昭和21年(1946)5月18日、挙母(現豊田市)の本社に於いて全国自販代表者会議を開催した。これは運輸省から地方自動車整備配給(自販)の解散命令が発せられるちょうど一月前のことである。この招待会は、数多くの有能な人材がトヨタに転ずる一つのキッカケとなり、後のヨトタ躍進に大いに役立った。この席上、喜一郎氏が「自動車工業の現状とトヨタ自動車の進路」を発表、わたくしは「販売方針及び機構の考え方」と題してフランチャイズ制への移行についての考え方を明らかにした。
かくして昭和21年11月16日、トヨタ自動車販売組合(23年にトヨタ自動車販売店協会に改称)が結成され、強力なトヨタの販売網が再発足するに至った。
4.販売店の経営近代化と潜在需要層への先行投資
わたくしは販売店の近代化を促進するために、GMの「標準ディーラー経営法」を教科書に、大衆ユーザーを対象の販売法、アフターサービスはどうしたらよいか、あるいは販売店の財務管理システムはどうあるべきか、などの刷新に努めた。また、在庫管理や債権債務管理にも最新の注意を促したのだった。
一方では、大量販売を可能とする環境、つまり潜在需要層の拡大を狙った先行投資を実施した。自動車学校の経営、自動車整備学校の開設。サービスセンターの設置など、第三者の目には一見、自販の経営多角化とも受け取れる投資である。しかし、わたくしは決して経営の多角化を目指していたわけではない。モータリゼーションが進展しやすい環境をつくろうとしただけである。観光開発にしろ、調査会社にしろ、あるいは産業映画、道路事業、自動車保険にしろ、すべてモータリゼーションの推進に欠かせぬ環境づくりの一環であったのである。「生産に先行投資があるように販売にも先行投資が必要である」の考えだった。
かみや しょうたろう 神谷 正太郎 | |
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生誕 | 1898年7月9日 愛知県知多郡横須賀町 (現・愛知県東海市) |
死没 | 1980年12月25日(82歳没) |
墓地 | 多磨霊園 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 名古屋市立商業学校卒業 |
職業 | 実業家 |
子供 | 神谷昭男(三男) |
神谷 正太郎(かみや しょうたろう、1898年〈明治31年〉7月9日 - 1980年〈昭和55年〉12月25日)は、日本の実業家。位階は従三位。勲等は勲一等。トヨタ自動車販売株式会社名誉会長。
三井物産会社、日本ゼネラル・モータース株式会社、株式会社豊田自動織機製作所での勤務を経て、トヨタ自動車販売株式会社社長(初代)、名古屋放送株式会社社長、トヨタ自動車販売株式会社会長(初代)などを歴任した。