掲載時肩書 | 建築家 |
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掲載期間 | 2009/05/01〜2009/05/31 |
出身地 | 大分県 |
生年月日 | 1931/07/23 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 大分 一高 |
入社 | 建築助手 |
配偶者 | 彫刻家宮脇愛子 |
主な仕事 | 渡欧、(音楽家、華道、美術家、彫刻家、俳優)連携、万博、筑波学園都市、阪神大震災 |
恩師・恩人 | 丹下健三 |
人脈 | 中谷宇吉郎、山田洋次(東同期)、安部公房、黒川紀章、槙文彦、支援者(上田保、岩田正、四島司)、岡本太郎、安藤忠雄、篠山紀信 |
備考 | 尊敬:コル ビュジェ |
1931年(昭和6年)7月23日 – )は大分県大分市出身。建築家・日本芸術院会員。一級建築士、アトリエ建築家。さまざまな現象へ分裂解体しつつあった世界の建築状況を整理し、改めて総合的な文化状況の中に位置づけ直し、全体的な見通しと批評言語を編纂した。この役割において、磯崎はポストモダン建築を牽引した建築家の一人であると言われる。特に日本では丹下健三以降の世代にとって、1970年以降の建築言説の展開の大凡は磯崎によって編成されてきたと見なされている。父は実業家で俳人の磯崎操次。夫人は彫刻家の宮脇愛子。
1.建築家への自問
建築とは目の前の物体だけを指すのではない。それができ上るまでの歴史や土地の文化を丸ごと含んでいる存在だ。アーキテクチャとビルディングの違いはそこにある。ル・コルビュジェの建築を理解することは、その背景に横たわるヨーロッパの伝統を学ぶことに他ならない。そして建築家とは伝統を現代の事象と照らし合わせ、一つの形にまとめ上げていく創造者であるのだ。こんな具合に自分なりの考えをまとめられるようになるまで、私は半世紀以上にわたり目指すべき建築家像を探し続けてきたといえよう。
2.空間の美、違った世界
1963年、初めて外国を訪ねるチャンスが舞い込んだ。イタリアで忘れられない体験をする。私は歩き疲れ、聖堂の暗がりに身をゆだねていた。高窓から一筋の光が差し込んだ。煤けた壁をわずかに照らし出す。その時、深い闇がその場に立ち込めているのを感じ、全身がその中に溶けだすような恍惚を味わった。建築が内部に抱え込む「空間」を初めて体感したのである。外側の輪郭や構成など問題ではない、と思った。それ以降、私は形が見えない「空間」や「場」というものを考え始めるようになる。
フランスでは3年前にル・コルビュジェが建てたラ・トゥーレット修道院を訪問。コンクリート打ちっ放しの表面はざらざらしていて粗っぽい。それなのに中にたたずむと柔らかで肉感的とさえいえる光に満ち溢れていることに衝撃を受けた。コンクリートの壁が巧みに導きいれた外光をとらえ、包み込んでいるのである。
3.外国建築の難しさ
ロサンゼルス現代美術館(MOCA)は群馬県立美術館、北九州市立美術館に次いで三番目に設計したものだった。言葉も文化も違う外国で設計の仕事はこれが初めてである。初めから荒れ模様だった。
建築家は世界中から50人を選び、面接や建築の視察などを経て最終的に一人にふるい落とす。費用の大半は民間に頼るため、建設委員会や運営委員会では大口の資金提供者である委員長がわがもの顔に振舞っていた。設計を始めた1981年1月から終了する83年9月までに、私が建設委員長に提出した案はおよそ30。これが毎回、拒絶された。美術館を際立たせる特徴のすべてを委員長は「建築家の過剰表現」と見なし、すべて取り払えという。入場者が入りやすいような設計も、建設費用を膨らませるだけの無駄とはねつけられた。
海外で実務的な仕事をすると思いがけない異文化体験をする。一つは契約書の優先、しかも弁護士のコトバしか信用されない。ロサンゼルスは西部劇のメンタリティーが今も流れているのだと、本気で思った。彼らはガンマンの代わりに弁護士を雇い、馬の代わりに車に乗る。美術館など牧場程度のものにすぎないのだ。しまいに「言うことを聞けないのか」と迫る委員長と口論となり、私は席を立った。
レクチャーに呼ばれていたニューオリンズの大学に暫く雲隠れしていると、ロサンゼルスの小さな新聞に記事が載った。これが騒ぎに火をつけた。ロサンゼルス・タイムスが後を追ったので大スキャンダルとなった。
委員長はニューヨークに乗り込んで弁明に努めたが、その批判記事もそのまま、訂正されず掲載された。
妥協せずにクビを切られるか、委員長の要求通りの美術館を造るか。いずれの道を選んでいても、外国で仕事を続けることは難しくなったに違いない。政財界の大物委員長を正面切って批判したジャーナリズムに私は助けられたのだ。
氏は‘22年12月28日、91歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’09年5月78歳のときでした。大分県立大分図書館(現アートプラザ)、群馬県立近代美術館で日本建築学会賞を受賞。「ポストモダン建築」の旗手として、つくばセンタービルや水戸芸術館なども手がけた。海外ではロサンゼルス現代美術館、バルセロナ五輪屋内競技場などを設計。国際コンペの審査員を多く務め、王立英国建築家協会ゴールドメダルのほか、2019年には「建築界のノーベル賞」とされるプリツカー賞も受賞された。
「私の履歴書」では大阪万博で「太陽の塔・・いやーな感じ」として書いていた。
丹下健三さんのもとで、いわば実行部隊長として万博会場の設計にかかわった私は、ユニークな発想を持つ若い仲間を東大チームに引っ張り込んだ。未来都市をイメージしたという奇抜な外観の建物が国や企業のパビリオンとして次々と設計されていった。
万博の中心施設「お祭り広場」では光や音、ハイテク機器で演出するアートイベントをやろうと決めた。高さ30mの巨大鉄骨フレーム屋根の下に700個の音響スピーカーや360度回転する照明などを設置。当時まだ珍しかったコンピュータでこれらの装置をコントロールする中央制御室と、会場内を動き回る演出用装置として高さ14mのロボット「デメ」と「デク」を作った。米航空宇宙局(NASA)のアポロ計画に触発され、管制室と宇宙船のシステムをモデルにしたものである。
近代主義的なユートピア像やテクノロジー信仰に満ち溢れていたこの場に、原始的な異物を出現させた人がいた。岡本太郎さんだ。彼がテーマ・プロデューサーに就任したことを聞いた丹下さんは「太郎さんが何かやるかもしれないから用意しておくように」と言っていた。大屋根を高さ68mの「太陽の塔」がブチ破るとは、この時だれも想像していない。
太陽の塔の模型を見せられて、私は奇っ怪でいやーな地霊がどんと顔を出してきたような気がした。時代錯誤的に見えるがモダニズムを突き抜けるような拒絶しがたい存在感があった。丹下さんもこの時ばかりは複雑な気分だったに違いない。芸術活動を共にしながらも気質がまるで違う太郎さんに対して、丹下さんはラブ&ヘイトといえる感情を持っていた。
磯崎新 | |
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磯崎新(2001年) | |
生誕 | 1931年7月23日 日本・大分県大分市 |
死没 | 2022年12月28日(91歳没) 日本・沖縄県那覇市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京大学工学部建築学科卒業 東京大学大学院数物系研究科建築学専攻博士課程修了 |
職業 | 建築家 |
配偶者 | 宮脇愛子 |
受賞 | 日本建築学会賞(1967、75年) 芸術選奨新人賞(1969年) 毎日芸術賞(1984年) RIBAゴールドメダル(1986年) 朝日賞(1988年) 日本文化デザイン大賞(1993年) ヴェネチア・ビエンナーレ金獅子賞(1996年) プリツカー賞(2019年) |
建築物 | 大分県立大分図書館 つくばセンタービル ロサンゼルス現代美術館 |
デザイン | モンローチェアー |
著作 | 空間へ |
磯崎 新(いそざき あらた、1931年(昭和6年)7月23日 - 2022年(令和4年)12月28日)は、日本の建築家、一級建築士、アトリエ建築家。日本芸術院会員。
大分県大分市出身。父は実業家で俳人の磯崎操次。妻は彫刻家の宮脇愛子。茨城・つくばセンタービルや米国・ロサンゼルス現代美術館などで知られ、ポストモダン建築をリードして国際的に活躍した。