掲載時肩書 | 川崎重工業社長 |
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掲載期間 | 1969/09/16〜1969/10/09 |
出身地 | 京都府与謝 |
生年月日 | 1899/09/15 |
掲載回数 | 24 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 鹿児島高等農林 |
入社 | 川崎造船 |
配偶者 | 友人妹 |
主な仕事 | 安全運動、川崎重工業、川崎航空機、川崎産業㈱、川崎機械(ヘリコプター1号機)、川重本社復帰、川崎グループ大合同 |
恩師・恩人 | 松方幸次郎(社長)、西山弥太郎 |
人脈 | 北村勝治、平生釟三郎、手塚敏雄、土光敏夫、河田重、三村起一 |
備考 | 父・村長、大本教・出口王仁五郎信奉 |
明治32年(1899)9月15日―昭和54年(1979)6月30日)京都府生れ。昭和2年、川崎造船所に入社以来、主として労務畑を歩き、36年、川崎重工業社長となり、44年より会長。主に労務政策にかけては社内随一のベテランで一家言をもつ。よく海外に出かけ、海外大企業の戦略もたえず実地に学びとる国際派経営者。44年、川崎重工業、川崎航空機、川崎車輌三社の大合同をはかり、陸海空の三本柱をもつ今日の「グランド川重」をつくった。また教育、とくに人材教育に熱心で、「教育肥料論」なる自説をもって、今日の教育の悪弊をなげく教育改造論者でもある。
1.ヘリコプターの一号機生産
昭和20年(1945)8月、終戦となるや航空機生産は禁止され、工場再建の見通しは全くつかなかった。航空機がつくれないのだから、これを専業とする川崎航空機はもはや存続の意義がない。これを清算して、翌21年5月に社名を川崎産業株式会社と変更、航空機生産で鍛えた高度の技術と経験を生かして民需品に再建の道を求めた。その後、川崎産業から分離して、私は昭和25年川崎機械工業の社長になった。
この会社は資本金8千5百万円で発足、航空機発動、機体製作の設備を利用して繊維機械、酸素呼吸器、消火器などの生産を始めたが、朝鮮動乱を背景とした需要の拡大で、経営は何とか安定した。27年春、航空機生産の再開に備えて四本取締役(現川重副社長)が渡米し、米国における航空機事情を視察して帰った。同年、講和条約が締結されて賠償の指定を受けた機械が解除された。それで四本取締役の意見に基づきヘリコプターの将来性に着目、ベル航空会社と技術提携を結び、直ちにベル47D―1型ヘリコプターの生産を開始した。これが日本でつくられたヘリコプターの第一号機である。
また川崎岐阜製作所でも航空機の生産禁止が解かれて間もない27年6月、4人乗り連絡機の設計を始めた。そして約1年後の28年7月に一号機、続いて10月には二号機を完成した。将来を考えると航空機部門は無限の可能性を秘めており、かっての親会社である川崎重工の仲立ちのもとに、29年3月に川崎航空機が再発足した。
2.川崎グループを大合同(重工、航空、車両会社を合併)
川崎航空機が戦後の荒廃の中から立ち上がり、経営が軌道に乗った昭和34年(1959)12月、川崎重工に復帰した私は両社の将来を考え、合併すべきだという信念を持っていた。亡くなった西山社長にも「川崎グループがバラバラでは今後の発展は難しい。資本金も一番多く、先輩でもあるあなたが旗を振って、川崎系の大合同を推し進めるべきだ」と進言したが、西山さんは他の案件があり、耳を傾けてくれなかった。
しかし昭和43年(1968)1月、三菱重工の社長になっていた私は、世界の巨大資本に対抗するために、川崎航空社長の四本潔君(現川重副社長)に「いよいよ合併の時期が来たようだな」と話したところ、「車両はどうしますか」と訊ねるので、「もし上田社長が一緒になるというならその方が一層望ましいのではないか」と返事した。四本さんがさっそく川崎車両社長の上田将雄さん(現川重副社長)にその旨を伝えたところ上田さんも同意されたので、三人が一時間ほど話し合った結果、一挙に合併が内定してしまった。
だから昭和43年1月から三社の具体的な話し合いに入り、同3月19日には合併を正式に発表、4月1日に合併が実現した。しみじみ思うことは、いかなる名案であっても時期が到来しなければ実現は困難であり、タイミングさえよければ非常に困難に見える仕事も案外スムーズに運ぶものであるということである。古人はこれを「天の時」といった。