石田退三 いしだ たいぞう

輸送用機器・手段

掲載時肩書トヨタ自工社長
掲載期間1958/09/06〜1958/09/18
出身地愛知県常滑
生年月日1888/11/16
掲載回数13 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
中学校
学歴その他滋賀一中(現・県立彦根高校)
入社洋家具店
配偶者沢田>石田(婿養子)
主な仕事呉服問屋、服部商店(商社)、上海、豊田紡織、自動織機製作所、トヨタ自動車工業、社長
恩師・恩人児玉一造、豊田利三郎(佐吉娘婿)
人脈豊田佐吉、服部兼三郎、三輪常次郎、豊田喜一郎、和田三造
備考人ではなく、設備で能率を上げよ
論評

1888年11月16日 – 1979年9月18日)は愛知県生まれ。実業家。豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)及びトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長・会長・相談役。 戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタの大番頭」と呼ばれる。 また、豊田英二と共に「トヨタ中興の祖」とも呼ばれ、社長在任中は「けち」に徹し、紙も裏まで使い、鉛筆も短くなるまでとことん使ったという。こうした節約でトヨタは無借金経営となり、現在まで続く優良な財務体質の基礎となった。「俺は佐吉翁から薫陶を受けた」が口癖で、自慢でもあった。

1.豊田佐吉翁の無口な人柄
豊田さんは人も知る豊田式織機の発明者だが、少年時代から発明狂といわれたが逸話も多い。私は直接、翁に接触した無口な性格の一面を紹介する。
 ときどき佐吉さんの所へご機嫌伺いに行った。「石田、君は商売人だぞ。商売人なら金を儲けてくれ。儲けたら俺たちに回してくれ。そうしてこそ、初めて研究ができるんだ。大体、世間のヤツは研究家の実情というものを知らんな」と、何度も繰り返して言った。いつも、自分は背中の高い大きな椅子に座っている。腰掛けるのではなく座っていて、勝手なときに、勝手なことを喋って、こちらにタバコを吸えとも、お茶を飲めとも言わない。また、あるとき訪ねると「おお、きょうは君が来ると思って待っていたよ。料理屋でご馳走してやる」そう言うと二人で馬車に乗り込んで料理屋に行った。芸者もちゃんと電話で4人ぐらい呼んであった。ところが座敷に入って座ってしまうと、これはまた家にいる時と同じで、芸者いようが、誰がいようが何も言わない。芸者は心得たもので、黙ってお酌をするばかりだ。佐吉さんはまた黙っていくらでも飲む。そうして、いい加減酒が入るといいご機嫌になって「石田君、さあ、帰ろう」というような調子である。
 思うに、佐吉さんは頭の中がいつも織機の進歩改良のことでいっぱいで、他事に気を回している余裕がなかったのだろう。だからこそ、あの世界的に有名な自動織機の完成ができたのだろうと思う。そして、私が佐吉さんに感心したのは、人に対して決して高圧的な態度に出たことがないことだ。

2.豊田自動織機入りは児玉一造の言葉で
私は昭和2年(1927)38歳のとき、豊田紡績に入った。私が服部商店から独立して商売を始めようとしたとき、恩人の児玉一造さんに相談に行くと、豊田に入婿となった弟・利三郎社長の所へ行けと言われた。そして「独立して、自分一人でメシを食おうなんてケチくさい考えを起こすな。人間である以上、社会、国家に貢献する仕事をせにゃ。志をもっと大きく持て、野心を燃やせ」と、こうじゅんじゅんと説かれると返す言葉がなかった。児玉さんにはいつも頭の上がらない私であった。こうして、豊田入りが決まった次第である。

3.退職金は月給の100か月の要求
戦後、晴天のヘキレキのごとき財閥指定となった。そこで豊田関係の会社を寸断することにした。これによって、自動織機製作所以外は全部名が変わった。車体は刈谷車体、工機は刈谷工機、電装は日本電装、東海飛行機は愛知工業、紡績は民成紡に、というわけである。さて、一通りの整備ができて少しずつ会社が儲かり始めると今度はストライキが始まった。昭和24年(1949)の自動織機が皮きりである。そして全豊田関係工場がこれに従った。そのとき私は自動織機の社長になっていた。退職金の配分問題で最高は月給の80か月から100か月分寄こせというものだった。これは無茶な要求だ。私自身が辞める時でも、誰もそれだけは保証してくれないだろう。戦前、服部商店を辞める時だって、月給が340円で退職金は4500円、約13か月分だった。それでも当時はありがたいと思っていたのに、そのころとは事情が違うにせよ100か月分はすさまじいと思った。私は一歩も譲らず、結局、基本給(全給与の三分の一から半分)の60か月分ということにした。これで計算すると最高120万円くらいになった。気の毒だとは思うが、私は何としてもこの点は譲れなかった。それでストは21日間続いておさまった。

いしだ たいぞう

石田 退三
石田退三
生誕 1888年11月16日
日本の旗 愛知県知多郡小鈴谷村
死没 (1979-09-18) 1979年9月18日(90歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 滋賀県立第一中学校卒業
職業 実業家
澤田徳三郎(
親戚 豊田利三郎
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石田 退三(いしだ たいぞう、1888年11月16日 - 1979年9月18日)は、日本実業家位階従三位勲等勲一等旧姓澤田(さわだ)。

豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)及びトヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の社長会長相談役戦後のトヨタ自動車の建て直しをし、「トヨタの大番頭」と呼ばれる[1]。 また、豊田英二と共に[2][3][4]「トヨタ中興の祖」とも呼ばれる[5][6]

  1. ^ TOYOTA GAZOO official <自動車人物伝>石田退三…トヨタ自動車の大番頭
  2. ^ トヨタ最高顧問 豊田英二氏が死去 100歳、中興の祖 日本経済新聞 2013年9月17日
  3. ^ トヨタ中興の祖、世界が追随「カンバン方式」 モノづくりに心血 産経新聞 2013年9月18日
  4. ^ 豊田英二氏死去 トヨタ方式を確立 中興の祖、生産効率追求 東京新聞 2013年9月18日
  5. ^ 苦労はいつか花となり実となる---トヨタ中興の祖、石田退三伝 Response. 2011年4月30日
  6. ^ トヨタ語録 - Amazon.co.jp
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