掲載時肩書 | 元首相 |
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掲載期間 | 1958/01/03〜1958/01/23 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1884/09/25 |
掲載回数 | 21 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 東京毎日新聞 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 主席卒業、東洋経済、早大騒動、論説、落選後蔵相、自由民主(合同)、首相 |
恩師・恩人 | 大島正健 校長(クラーク門下) |
人脈 | 大隈重信、島村抱月、尾崎士郎、高橋亀吉、片山潜、小汀利得、三木武吉、岩崎小弥太 |
備考 | 父日蓮法主 |
1884年〈明治17年〉9月25日 – 1973年〈昭和48年〉4月25日)は東京生まれ。ジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。戦前は『東洋経済新報』により、一貫して日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱え、戦後は「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍した。保守合同後初めて本格的に実施された自民党総裁選挙を制して総理総裁となったが、在任2ヵ月弱で発病し、退陣した。退陣後は中華人民共和国との国交正常化に力を尽くした。
1.普通選挙・・・尾崎咢堂翁にインタビュー
私は「東洋経済新報社」の記者時代、普通選挙について当時東京市長であった尾崎行雄(咢堂)氏を訪問し、その意見をきいてみた。私は氏から大いに普選促進論を聞き、雑誌の材料にするつもりで尋ねたのであった。
しかるに全く意外にも、私は氏から普選反対論を聞かされた。それは「英国のごとく国民に訓練があり、秩序を重んずるところでは、普選も害はないであろう。しかるに日本の現状は英国の程度まで政治的訓練ができていないので、いたずらに大衆に権利だけを与える時は、社会の秩序を保てない危険がある」という意味の話であった。自分の雑誌が普選論の急先鋒であることを大いに誇りとし、かつその最も有力な支持者が得られるものと予期して出かけた私は、まったく二の句がつげなかった。
しかし今から考えると同氏の反対論も決して軽蔑すべきでなく、十分玩味する価値のあるものであった。当時、尾崎さんが心配したような危険があったろうとは思えないが、しかし訓練なき民衆に、にわかに権利のみが拡張される危険ということは十分考えうることである。とにかく世人から憲政の神様とまで敬われた尾崎氏が、実は普選の反対者だったとは今日知っている人は少ないであろう。
2.え?大蔵大臣・・・落選した民間人として
私は昭和21年(1946)春の総選挙に、にわかに出馬することになった。その理由は2つあった。一つは昭和21年1月初め、GHQの指令により、過去の日本の政治家の多くは、にわかに追放され選挙に出られなくなったため、各政党とも候補者がなく困っていた。第2の理由は敗戦直後の日本の緊縮政策を取ったら容易ならざる結果を生む恐れがあるので、みずから政界に出て、いずれかの政党の政策に自分の主張を強力に取り入れてもらい、これを何とか食い止めなければならないと考えた。これが実は昭和21年春、立候補した時の私の心情であった。
しかし、私の東京都第二区からの出馬決定は甚だ遅く、昭和20年12月18日解散されたにかかわらず昭和21年3月13日ごろようやく届出をしたようなわけで、4月10日の投票日まで約1か月の努力にかかわらず見事に落選した。
しかるにこの総選挙の結果は、自由党が第一党となり、党首の鳩山一郎氏に総理大臣の大命が降ることになった瞬間、同氏は5月4日公職追放を受け、政界から去らざるを得なくなった。自由党は大変な騒ぎであったが、後事を吉田茂氏に頼むことになった。同氏は金の心配はしないこと、人事に干渉を受けないことなどの条件で鳩山氏のあとを継ぎ、昭和21年5月22日第一次吉田内閣は成立し、私は大蔵大臣の重責に任ぜられたのであった。けだし落選して大蔵大臣のイスをひろったのは世界広しといえども私だけであろう。
3.総理大臣に就任と2か月後の辞任
鳩山一郎総裁が引退することになり、後任総裁の公選が昭和31年(1956)12月14日、産経会館で行われることになった。私はもちろん立候補したこともなければ、その気持ちもなかった。しかし私を担いでくれる人々が同志獲得に奔走していることは知っていた。したがって担がれた私自身は誠にのんびりしていたのだが、大久保留次郎、加藤常太郎、石田博英君らの苦労は大変だったに違いない。
さて公選の日、私は石田博英君らに迎えられて会場に入ったが、別段の興奮も感じなかった。そしてこの日、自由民主党の第二代総裁に選ばれたのである。
ついで同月20日、私は国会で内閣総理大臣に指名され直ちに組閣に着手した。ところが、その組閣が難航して、なかなか閣僚の人選が決まらない。それでもようやく同月23日夜には組閣も完了して各大臣の認証式も終わった。息つく暇もなく年末は各新聞社、放送局の座談会やら対談会に引っ張り出され、新年早々から全国遊説に休む間もなく引き回されるのには閉口した。まったく総理大臣とは大変なものだとつくづく思ったのはそのころであった。そんな無理がたたり、1月25日、私はとうとう風邪を引き寝込んでしまった。それ以後は病気が長引くとの医師団の診断により、私は潔く内閣総理大臣の職を辞した。
その際の私の心境は当時の岸内閣総理大臣臨時代理と三木武夫幹事長に次の内容の書簡を預けた。「私の発病以来、各位には種々ご迷惑をおかけしまして申し訳なく思っております。それにも関わらず、各位より私に対し安心して十分静養に努めるようにと温かいご配慮を賜り感銘にたえません。しかし医者はなお二か月の休養を求めました。私はいろいろ考えました末、この際思い切って辞任すべきであると決意するに至りました。友人諸君や国民多数の方々からは、そう早まる必要はないというご同情あるお考えもあるかもしれませんが、私は決意しました。
私は新内閣の首相として、もっとも重要なる予算審議に一日も出席できないことが明らかになりました以上は首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います」。
石橋 湛山 いしばし たんざん | |
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石橋の肖像写真(1951年ごろ) | |
生年月日 | 1884年9月25日 |
出生地 | 日本 東京市芝区芝二本榎 (現:港区) |
没年月日 | 1973年4月25日(88歳没) |
死没地 | 日本 東京都 |
出身校 | 早稲田大学文学科卒業 |
前職 | 東洋経済新報社合名社員 |
所属政党 | (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) (分党派自由党→) (自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 名誉博士(早稲田大学・1957年) 権大僧正(日蓮宗・1957年) 大日本帝国陸軍少尉 |
配偶者 | 石橋うめ |
子女 | 長男:石橋湛一 長女:千葉歌子 次男:石橋和彦 |
親族 | 杉田日布(父) |
サイン | |
第55代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 石橋内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年2月25日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第9代 郵政大臣 | |
内閣 | 石橋内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1956年12月27日(総理兼任) |
第10-12代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第1次鳩山一郎内閣 第2次鳩山一郎内閣 第3次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1954年12月10日 - 1956年12月23日 |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1947年1月31日 - 1947年3月20日 |
第50代 大蔵大臣 | |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1946年5月22日 - 1947年5月24日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 静岡県第2区 当選回数 6回 (1947年4月26日 - 1947年5月17日) (1952年10月2日 - 1963年10月23日) | |
神奈川県鎌倉町会議員 (1924年 - 1928年) | |
第2代 自由民主党総裁 (1956年12月23日 - 1957年2月25日) |
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。
大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。内閣総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。