掲載時肩書 | 元内閣官房副長官 |
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掲載期間 | 2019/06/01〜2019/06/30 |
出身地 | 群馬県 |
生年月日 | 1926/11/24 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 92 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 第二高等学校 |
入社 | 自治省 |
配偶者 | |
主な仕事 | 地方自治制度案、自治医大、次官、官房副長官、消費税、崩御、リクルート、7,3年間7人の首相、阪神大震災 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 高木文雄、奥野誠亮、福田赳夫、山口光秀、鈴木俊一、小沢一郎、中曽根、後藤田、竹下、小渕、宮沢、細川、羽田、海部、宇野、村山 |
備考 |
事務系の官房副長官でこの「履歴書」で登場したのは、2015年3月登場の古川貞二郎氏に次いで二人目である。石原氏は7代の内閣(竹下、宇野、海部、宮沢、細川、羽田、村山)に仕え、7年3ヶ月に及んだ。(なお、古川氏は5代の内閣(村山、橋本、小渕、森、小泉)に仕え、在任期間は8年7ヶ月の歴代最長)。石原氏の在任期間は、自民党の戦後55年体制が崩れ、8党派の非自民連立政権が誕生した混乱期だったが、官僚機構の取り纏め役として手腕を発揮した。その手腕は能力と人徳によるが、人脈で出身県の群馬(福田、中曽根、小渕ら首相)、東大(愛知揆一、高木文雄ら)、自治省(後藤田、奥野誠亮、鈴木俊一ら)、出向県では茨城(友末知事)、鹿児島(山中貞則)、岡山(橋本龍太郎、竹下登)を最大活用した印象だった。
今回の記述で認識を新たにしたのは次の5つ。
1.自治省と大蔵省との関係:お互い地方財源を巡って対立する関係にあるが、同時に大蔵省は国の財政、自治省は地方の財政にそれぞれ責任がある。議論は議論として、最後はお互いの立場を理解しあう形で仕事を行った。
2.自治省の次官人事:自治省の次官は財政局と行政局のたすき掛けだ。この2つの局は肌合いが異なる。行政局は組織や権限にこだわり地方分権といった原理原則を重視する。財政局は行政サービスを維持するため地方財源をいかに確保するかという実質を第一に考える。
3.米国の介入度合:ブッシュ大統領(父親)は日米通商交渉(牛肉・オレンジ等)や湾岸戦争の資金協力で次々と追加負担を求める「ブッシュホン」で、クリントン大統領からは北朝鮮危機に対する米軍支援を細川政権に強硬に求められていた。想像以上の介入だった。
4.村山内閣の功績:自民党が対極にある社会党左派と組んだ村山内閣では、対立していた懸案の処理が一気に進んだ。①安保条約の堅持、②自衛隊合憲と基本政策の転換、③消費税5%に引き上げる法律で、導入時の減税先行分を補えるようになった、などである。
5.政と官の関係:氏が最も訴求したかったのはこの関係だった。初日と最終日に詳しく書いている。平成の後半から官邸が各省庁の人事権を握り、官邸一極集中の政治主導が強まっている。政治家は選挙を通じて国民のニーズを吸い上げる。しかし政治家に届かない国民の声も存在する。行政の立場で官僚諸君が自由にものを考え、国民のニーズを把握することは、行政の健全性や政策のバランスを保ち、社会の安定につながる。それには最終的な人事権は官邸が持つことにしても、よほどのことがなければ人事では各省の運用を尊重することが大切だ。消費税10%の引き上げなど元来、国民の痛みを伴うことは言いにくいのが政治家だ。役人は社会保障の将来を考えて痛みを伴う改革も言わなければならない。そうしなければ結局、ツケは国民に回る。平成の時代は官邸に権限が集中した。令和の時代にはその集中した権限の使い方が問われる、と警告を発している。
氏は’23年1月29日、96歳で亡くなった。この履歴書に’19年6月で92歳のときだった。氏は1987年に内閣官房副長官に就き、竹下内閣から村山内閣までの7内閣を支えた。その主な仕事は、
1.89年には昭和天皇崩御に伴う大喪の礼の対応や「平成」の元号平成などを取り仕切った。
2.89年の消費税の導入、
3.92年の国連平和維持活動(PKO)協力法の成立、
4.93年の従軍慰安婦に関する河野洋平官房長官の談話作成に関わる。
5.95年の阪神大震災の復旧・復興にも尽力した。
日経新聞(2月2日)朝刊に担当記番者・吉野直也氏の追悼文が載っていた。
「あざみ野駅の旧富士銀行前で番記者は待ち構え、ともに乗車した。あざみ野駅の改札をくぐるまでと永田町駅の改札を出て、自民党本部前で公用車に乗るまでの距離は取材を認められた。官僚トップである石原氏の発言は政府の公式見解ではなく背景説明と位置づけられた。引用する場合は「政府筋」。石原氏の朝回りが過熱したのには理由があった。
その前年93年6月、石原朝回りで北朝鮮の弾道ミサイル「ノドン」の日本海側への発射が明らかになった。日本政府高官が北朝鮮のミサイル発射を公表したのは初めてだった。
94年の番記者の時代は北朝鮮危機のさなか。何が起こっていたのか真相を知ったのは、16年後の2010年だった。石原氏のもとを訪れ、北朝鮮危機について聞いた。1994年2月の細川護熙首相とクリントン米大統領の会談。「本当は何を話したのですか」。しばらく黙っていた石原氏が口を開いた。「経済の話は、ほぼなかった。北朝鮮一色だった」
会談後の日米の発表は「貿易不均衡の是正策で折り合えなかった」。クリントン氏は日本側が想定していなかった米国の開戦準備を伝え、協力を要請したのだ。
日本側はクリントン氏の要求を伏せ、石原氏を中心に秘密裏に米軍支援を検討した。数カ月後、米国に回答したのは「何もできない」だった。今なら安全保障関連法で日本の存立が危ぶまれる「存立危機事態」と認定して集団的自衛権を行使できる。その時は根拠となる法律がなかった。
石原氏と最後に会ったのは昨年11月の各府省庁事務次官OB有志らによる古川貞二郎元官房副長官を「偲ぶ会」だった。挨拶に立った石原氏は昭和天皇崩御に伴う大喪の礼や「平成」の元号制定を当時、首席内閣参事官の古川氏とのコンビで取り組んだ思い出を語った。ノドン発射から今年で30年。昨年12月に決定した防衛政策の大転換となる安保関連3文書を見届けるように昭和から平成の激動期を支えた官房副長官がまた逝った。 (政治部長 吉野直也)