掲載時肩書 | 中部電力会長 |
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掲載期間 | 1990/04/01〜1990/04/30 |
出身地 | 佐賀県 |
生年月日 | 1911/04/26 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶応予 |
入社 | 東邦電力 |
配偶者 | 松永翁弟娘(小林一三仲人) |
主な仕事 | 慶応ボート部(ローアウト精神)、福岡支店、松永翁秘書、社長、中電改革、中経連会長、セラミック財団、タカ匠センター、徳川美術館 |
恩師・恩人 | 松永翁、横山通夫 |
人脈 | 小林一三(父友)、乾豊彦(叔父)、永倉三郎、竹見淳一、池田勇人、岩田弐夫、三宅重光、千代の富士、片岡球子、牛場信彦、 |
備考 | 父・松永翁と東邦創立、松永遺書(甥・安太郎、木川田一隆、井上五郎、横山通夫、私の5名) |
1911年(明治44年)4月26日 – 1998年(平成10年)6月24日)は佐賀県生まれ。昭和から平成にかけて活動した日本の実業家。中部電力第4代代表取締役社長(のち会長・相談役)を務め、名古屋財界の重鎮であった。中部電力以外では東海旅客鉄道(JR東海)代表取締役会長、中部経済連合会会長、日本電気協会会長、西ドイツ名誉領事、中部新国際空港建設促進協議会代表理事、名古屋グランパスエイト会長、ナゴヤドーム会長、財団法人東海産業技術振興財団理事長などを歴任。
1.東邦電力の創立由来
大正11年(1922)6月に産声をあげた同社は、創立までに複雑な経過を辿るものの、実質的には松永安左エ門翁が福岡に作った九州電灯鉄道と、福沢桃介氏が経営権を握っていた名古屋電灯が合併して成立した会社である。これに伴い、本社も東京に移る。設立総会では九州の資本家、伊丹弥太郎氏が社長、松永翁は副社長(3年後の1928年に社長就任)、私の父は専務に就任した。いわば父は同社のナンバースリーになった。東邦電力はこの後も多くの中小の電力会社を買収したり、水力発電所などの電源開発を進め、戦前までに「5大電力」と呼ばれた大手電力会社の中でも最大級の事業規模になった。
2.横山通夫氏から学ぶ
慶応ラグビー部の創設者で、九州にこのスポーツを広めるのにも貢献した横山氏には、特にお世話になった。私の入社時に、初担当の上司が横山氏だった。横山氏の人望は厚く、職場に自由闊達な雰囲気が溢れていた。この横山氏がリーダーだったラグビ-部に入り、公私にわたる付き合いをさせていただいた。
学生時代からボート専門で、ラクビーにはズブの素人の私に与えられたポジションはバックロー。フォワードの一人として、スクラムを組んだ。横山氏は司令塔の一つであるスクラムハーフ。俊足を生かして、素早い球さばきを見せていた。しかし、自分では決してトライをせず、ゴール前で必ず若い選手にボールを渡していた。おそらく若手に自信を付けさせるためだったのだろう。
仕事ぶりも同じだった。難しい仕事には自ら取り組むが、派手で目立つ業務や仕事の最後の仕上げは若い社員に任せるようにしていた。口数は少なく余分なことは言わなかったが、「君たちは大きな顔をして街を歩いてはいけない。歩いている人はみなお客様だと思いなさい」と謙虚さを学べと教えられた。また、夜の宴席でも12時を過ぎることはなかった。この時間になると、横山氏が持つラクビー用の笛が「ピッ、ピー」と料亭内に鳴り響き、全員帰宅したからだ。
3.松永翁の秘書役で学ぶ
昭和27年(1952)春、中部電力・東京支社に転勤した。新しい役職は総務課長。支社は東京・銀座の中部配電事務所を引き継いだもので、ここに松永翁の“銀座電力局”があった縁もあって、私は翁の秘書役的な仕事を命じられた。これが縁で、翁の経営哲学や仕事ぶりにじかに触れることができ、多くを学んだ。
「電力不足が戦後復興の足を引っ張るようではいけない」と電源開発にはとりわけ熱心で、全国各地の山々に入り、水力発電所の建設現場などを次々と視察して歩いた。その情熱はすさまじく、側にいてひやりとさせられる場面もあった。確か昭和30年〈1955〉ごろ、長野県・上高地の帝国ホテルに東京電力の重役陣を集めた会議で、梓川での水力開発着手を決めた。新聞記者も駆け付けてホテル内で記者会見となったが、翁は「この開発計画は当分延期だ。もう少し慎重に考えてからだ」と平然と言った。
重役らがびっくりしていると、後で、「今すぐ開発しますなんど言ってみろ、地元からいろいろな要求が押し寄せる。それでは仕事が増えるばかりで、東電だってつぶれてしまう・・・」とその真意を教えてくれた。開発をスムーズに進める「知恵」というわけで、この豪胆さにはみんな舌を巻いた。
また口癖で、「男は破産と大病、それに牢屋に入らないと一人前になれない」とよく言われた。翁は慶應義塾に学んでいたころ、コレラに罹り奇跡的に助かっている。破産は電力を手掛ける以前に何回か経験。牢屋は関西の鉄道事業をめぐる贈賄容疑で取り調べを受けた際に阪急の小林一三氏と一緒に入っている。自らの体験をもとに「苦労をいとうな」と言いたかったのだろう。
4.松永翁の遺書
翁の遺書が私の手元にある。甥で翁の後を継いだ安太郎氏、東京電力の木川田一隆氏、中部電力では井上五郎、横山通夫両氏、それに私の5人に宛てられたものである。東京の慶応病院で、翁が95歳の生涯を閉じられたのは昭和46年(1971)6月16日。その2,3日前から私は病院に詰めており、逝去後まもなく横山氏から手渡された。受取人が5人なので、私には直筆ではなくて青焼きのコピーだ。今や健在なのは安太郎氏と私だけになってしまった。ここに紹介しよう。
「一つ、死後の計らいの事、何度も申し置く通り、死後一切の葬儀、法要はうずくの出るほどに嫌いに是あり、墓碑一切、法要一切が不要。線香類も嫌い。死んで勲章位階(もとより誰もくれまいが、友人の政治家が勘違いで尽力する不心得かたく禁物)これはヘドが出るほど嫌いに候。
財産は伜及び遺族に一切くれてはいかぬ。彼らが堕落するだけです(衣類など形見は親類と懇意の人に分けるべし。ステッキ類もしかり)。小田原邸宅、家、美術品、必要什器は一切、記念館に寄付する。これは何度も言った。つまらぬ物は僕と懇意の者や小田原従業者らに分かち合うべし。
借金はないはずだ。戒名も要らぬ。この大締めは池田勇人君にお願いする。以上」
この遺書の日付は30年(1961)12月8日。亡くなる10年前だが、これ以降書かれた遺書はない。最後に元首相の池田氏に大締めをお願いするとあるのは、同氏が電力再編時の通産相であり、首相になってからも親交を続けていた関係で、遺言の未届けを頼んだものだろう。ただ池田氏のほうが先に亡くなった。
遺言どおり葬儀は見送った。小田原市郊外の邸宅で通夜をし、翌17日には市営火葬場で荼毘に付して、翁のお気に入りだった埼玉県・野火止の平林寺に埋葬した。「墓碑も要らぬ」の意志に従い、土を盛った上に丸い石を一つ置いただけの墓になった。隣には既に一子夫人が眠っていた。
5.翁の夫人弔い
松永夫人が亡くなったのは昭和33年(1958)秋。この直後、翁には当社の松本浅間荘を足場に長野、群馬両県の電源開発を視察する予定が入っていた。当然、視察は中止になるとだろうと同行する私たちは思っていたが、翁は「葬式などしない。本人にわかるはずもなく、他人に迷惑をかける」と言って予定通り、視察した。これにはみんな驚いた。
山荘での一夜、仕事の都合でたまたま翁の寝室へ行くと、机の電気スタンドの下に亡き夫人の写真がそっと飾ってあった。「いくら頑固に葬儀はしないなどと言っても、夫人を心から大事にされていたのだな」。夫婦の情愛のこもった翁の姿をそこに見つけ、私は胸が熱くなるのを覚えた。
田中 精一(たなか せいいち)