掲載時肩書 | ウシオ電機会長 |
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掲載期間 | 1999/10/01〜1999/10/31 |
出身地 | 兵庫県 |
生年月日 | 1931/02/12 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 東京銀行 |
配偶者 | JALスチ ュアデス |
主な仕事 | バークレー・私費留学、神戸銀、牛尾工業、ウシオ電機、音響、光源>光>システム、JC会頭、経済同友会 |
恩師・恩人 | 青柳忍、市村清、松下幸之助 |
人脈 | 瀬戸雄三、小松左京、岡崎久彦、盛田昭夫、石川六郎、江藤淳、島田正吾、浅利慶太、黒川紀章、土光敏夫、竹村健一、稲盛和夫、飯田亮 |
備考 | 祖父・父・私と3代師:安岡正篤、親(財産家)の七光りあり |
1931年2月12日 – )は兵庫県生まれ。実業家。ウシオ電機株式会社の設立者である。同社名誉相談役、取締役相談役、経済同友会特別顧問(終身幹事)、公益財団法人日本生産性本部会長(2003年から2014年)、名誉会長(2014年から2020年)などを務めた。1995年4月に経済同友会代表幹事に就任、1999年4月からは特別顧問(終身幹事)に就いている。1996年2月には日本ベンチャーキャピタル株式会社を設立し、取締役会長に就任(2002年6月に名誉会長に退く)。2001年には経済財政諮問会議議員、日本郵政・社外取締役に就任。また、旧・第二電電がケイディディ(KDD)・日本移動通信(IDO)と合併して出来た旧・ディーディーアイ(現・KDDI)が成立する前後に会長を務めている。
1.七ひかりで趣味を拡げる
三高からの演劇の趣味もますます高じていった。母・美津子はとても演劇好き。新国劇の島田正吾さんや辰巳柳太郎さんも家に遊びに来る。文学座の杉村春子さんや中村伸郎さん、民芸の細川ちか子さん、宇野重吉さんらも、よく我が家に出入りしていた。公職追放後の父は、こんな集いを楽しみにしていた。
なかでも新国劇の島田さんが、京都・南座で上演中は、鴨川べりにある定宿に私も泊まりに行った。静かに酒を飲む島田さんにはいろいろと教えられた。京都の頃に覚えた生活は、東大時代に磨きがかかった。有楽座や明治座の公演が終わると、「夜、来ませんか」と電話をよくいただいた。いくつもの店を紹介していただき、すっかり雰囲気が気に入って、時折り一人で飲みに行った。
島田さんには小唄も勧められた。画家の木村荘八さんが中野区鍋屋横丁のお宅で毎週、田村流の先生を呼んで開いていた小唄のけいこにも参加した。島田さんや辰巳さんの奥さんと一緒に、月2回ならった。
2.発足時の経営方針
昭和38年発足のウシオ電機は、社員の平均年齢が23歳余りの若い会社だった。18歳の女性に目線を置いて、会社の方向と成果と役割を明確にし、留学で学んだ米国流の民主主義を企業経営に持ち込んだ。
紫から赤までの七色の虹を作る光を可視光線というが、この分野に関しては限りなく太陽に近い光を追求する。従来、光は明るさのために使われるものがほとんどだった。これからは光化学反応やエネルギーとして使用される市場をにらんで、赤より外、紫より外にある赤外線、紫外線を光の大きなテーマにすることに決めた。
この3分野の光源を作る。その光源にレンズやミラー、設計を加えて、光にする。それをさらに繰り広げて、光のシステムにする。光源から光へ、そして光のシステムへと多重構造の経営戦略を説明した。この専門技術の深耕と特殊化するマーケットを組み合わせて、「日本の中堅企業」から「日本の大企業」になるのではなく、「世界の中堅企業」を目指すことを力説し、邁進した。その結果、昭和45年(1970)5月に会社設立7年目で東京証券取引所二部に上場することができた。
3.松下新党構想の裏話
昭和54年(1979)に私が都知事候補のころ、松下幸之助さんとお会いするようになった。「自習自得して、志を持つ政治家を育てたい」との考えで、「松下政経塾の設立に手伝って欲しい」と言われ、引き受けた。
卒塾者から、もう16人の国会議員が出ている。松下さんには先見の明があった。「こちらから伺います」と羽田空港の松下さんから電話があって、田園調布の我が家まで足を運んでこられた。「政経塾の成長を待っていては、日本は間に合いません」。松下新党構想だった。私は「無税国家論や国土創生論は十分、新党の政策たり得ます。でも安全保障や外交政策がありません。もうしばらく政策作りをした方がいいと思います」と述べた。
やがて、「世界を考える京都座会」が発足した。毎月1回、京都に集まり、松下さんの司会のもとに12人のメンバーで議論を重ねた。テーマは安全保障、外交政策から国家経営まで多様だった。松下さん、山本七平さん、天谷直弘さん、高坂正尭さんは亡くなられたが、この会は東京で今もPHP研究所副社長の江口克彦さんが軸となって残った8人で続いている。
氏は‘23年6月13日、92歳で亡くなった。この「私の履歴書」に登場は1999年10月で68歳のときでした。初日の文章はつぎのように始まった。
「振り返れば、曲がりくねった一筋の道が続いている。自分の信じる道を、よろめきながらも一歩一歩辿って来た。この一筋の道を贈りたい」。大学時代に悩んでいたころ、三高時代の恩師である山本修二先生から、こんな手紙をいただいた。自分で考えて、自分の意見を持ち、自分の信じる道を自己の責任で歩く。そんな人生を歩んできたつもりだ、と。
日経新聞の2023年6月22日朝刊に氏への追悼文が掲載された。
歴代首相からこれほど頼りにされた経済人は類を見ない。日本銀行、日本郵政、一時国有化のりそな銀行など、小泉純一郎氏や安倍晋三氏らが進めた重要なトップ人事では、必ずと言っていいほど舞台裏に牛尾氏がいた。人選から説得、根回しに至るまで行動力と影響力を発揮した。
父の事業の不採算部門を受け継ぎ、1964年にウシオ電機を33歳で創業。複写機や映写機用の高性能ランプで世界市場をつかんだ。巨大企業の看板もなく経済界で頭角を現したのは物おじしない言動からだった。
69年、日本青年会議所の会頭として「従業員の声を聞く仕組みを作らなければ企業内で内ゲバ(組織内抗争)が起きる」と警告し、注目を集めた。
政権の改革論議に若くして参画した。鈴木善幸氏の時代に始まった第2次臨時行政調査会では35歳年上の土光敏夫会長のもと国鉄や電電公社の改革議論を支えた。中曽根康弘政権時の政府税制調査会では抜本改革を迫る「暴れ馬」の委員として鳴らした。
新自由クラブを結成した河野洋平氏の政策立案を支援した。当時の大平正芳首相から東京都知事選挙への出馬を要請され、固辞したことも。松下電器(現パナソニック)創業者の松下幸之助氏から「松下政経塾」の設置で相談を受け、初代の副塾頭を務めた。
86年の「リクルート事件」で江副浩正氏から未公開株を得て公職を辞する挫折も味わった。
常に時代の変わり目を見据えていた。95年に経済同友会の代表幹事に就くと、グローバル化と市場主義の視点に立った変革を訴えた。代表幹事を退いた後も、小泉政権で経済財政諮問会議の民間議員として改革論議の先頭に立った。
07~20年には総合研究開発機構(NIRA)の会長を務め、責任やリスクを分かち合う「信頼社会」の構築を説いた。「民主主義と市場経済の緊張が高まる」。高齢社会で成長の果実でなく負担増の分担が迫る時代を見据え、内向きな日本の意識を変えるよう訴えた。
180センチの長身をミラノファッションのスーツに包み、いつも屈託のない笑顔で議論の輪の中心にいた。30年近く前から、若輩の記者に「家探しはどうするんだ」「お子さんの教育は」と折に触れて問いかけてくれた。若い世代への目配りを欠かさない人だった。(編集委員 菅野幹雄)