掲載時肩書 | 衆議院議員 |
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掲載期間 | 1977/02/26〜1977/03/28 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1899/12/21 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 内務省 |
配偶者 | 許嫁け 近所 |
主な仕事 | 衛生局、社会福祉、欧米視察、大分県知事、内務次官、議員、厚相、文相 |
恩師・恩人 | 大達茂雄、緒方竹虎 |
人脈 | 大橋武夫、古井善美、小林与三次、石井光次郎、今日出海 |
備考 | 代々醬油屋、父・町長 |
1899年(明治32年)12月21日 – 1994年(平成6年)1月22日)は広島生まれ。内務・厚生官僚、政治家。衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(41代)を歴任した。椎名悦三郎と灘尾は、1971年に宏池会会長の座を追われた前尾繁三郎と交友を続けており、毎月一回行った3人の会合は「三賢人の会」と呼ばれた。灘尾は無派閥であったものの、派閥を超えた政策勉強会「金曜会」を主宰しており、党内に影響力をもつ人物同士の会合となった「三賢人の会」は次第に政局の節目で注目を集めるようになった。
1.厚生省の設置
昭和13年(1938)1月11日、「厚生省」が設置された。私は内務省保護課長の在籍のまま、厚生省社会局の保護課長になった。創設当初は、体力、衛生、予防、社会、労働の5局と臨時軍事援護部、外局として保険院があった。設置に伴い内務省社会局の仕事も厚生省内に移された。これが戦後も福祉行政の推進を担うようになる。私は罹災救助から少年保護、方面委員の世話など、いろいろ細かい業務を受持ったが、その時の立法に「社会事業法」がある。
そのころ、社会事業についての統一的な法律はなかった。そこで、社会事業への国庫補助、免税、助成監督を強力に進めるために作成されたのだった。
2.教員の勤務評定実施
昭和33年(1958)6月岸内閣のとき、私は二度目の文相に就任した。松永前文相による勤務評定実施を巡って、デモもあり陳情もありで、大騒ぎの時である。野党議員から国会本会議で、勤務評定実施の質問が出た際、「やる」と応え、
「勤務評定は、教職員の人事を公正に行い、教育の向上を図るための基礎資料である。ことは教育行政自体の問題として扱うべきなのに、政治闘争の道具とされ、争いをするのは不可解千万。国民は憤りを感じている」と答えた。しかし、勤務評定を巡る紛争は全国に広がってしまい、日教組は9月15日を期して授業を放棄すると言い出した。
私は「法がある以上、法に従うべきである。そして法律を実施するのが行政の仕事であり、ストで子供教育を闘争に持ち込むな」と訴え、ストライキ直前まで日教組の反省を求め、国会では野党議員と論争したが、結局ストは実施された。ストそのものは、大したことにならず収拾されたが、これによって、教育界には変異が広がるのである。
3.文化庁の創設
私が第二次佐藤内閣の文相時代、文化庁ができた。文化庁創設にはこんな背景があった。当時、行政整理のため、各省で局を減らすということになった。文部省も一局減らさなければならなかった。そこで文部省の内局の文化局と行政委員会である文化財保護委員会を一つに纏めて、「文化庁」にしたのである。
我が国の芸術・文化行政の立ち遅れは著しい上、国土の開発に伴い、文化財保護の必要性もますます高まってくる。そうしたことから、行政の強化、効率化を図るために文化庁構想が生まれたのである。初代長官は今日出海さんにお願いし、43年(1968)6月15日、文部省の玄関に「文化庁」の看板を出して、店開きをした。その字は私が書いた。
岸内閣の文相時代に、仏国のアンドレ・マルロー文化相が訪ねて来られた。マルロー氏は、国立西洋博物館の松方コレクションを日本に持ってくる際に、だいぶ骨を折ってくれた人である。そのマルロー氏が、文化交流のために、相当な額の予算を用意したと言い、新旧の芸術、科学技術を含めて、あらゆる面で日仏の文化交流を図りたい。そのために例えば、仏国の大学に日本に関する講座を設ける、歌舞伎公演のためにパリに劇場を提供する、などとなかなか大きな提案であった。
灘尾 弘吉 なだお ひろきち | |
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灘尾弘吉(文部大臣在任時) | |
生年月日 | 1899年12月21日 |
出生地 | 日本 広島県大柿村(現江田島市) |
没年月日 | 1994年1月22日(94歳没) |
死没地 | 日本 東京都世田谷区 |
出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) |
前職 | 内務・厚生官僚 |
所属政党 | (自由党→) 自由民主党 (議長在任期間は無所属) |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 衆議院永年在職議員 |
親族 | 父・灘尾夫子俟 女婿・伊部英男 |
第60-61代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1979年2月1日 - 1980年5月19日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第74-75・77・82-83・90代 文部大臣 | |
内閣 | 石橋内閣 第1次岸内閣 第2次岸内閣 第2次池田第2次改造内閣 第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 第2次佐藤第1次改造内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年7月10日 1958年6月12日 - 1958年12月31日 1962年7月18日 - 1964年7月18日 1967年11月25日 - 1968年11月30日 |
第36代 厚生大臣 | |
内閣 | 第2次池田第1次改造内閣 |
在任期間 | 1961年7月18日 - 1962年7月18日 |
選挙区 | 広島県第1区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1983年11月27日 |
官選第33代 大分県知事 | |
在任期間 | 1941年1月7日 - 1942年6月15日 |
その他の職歴 | |
第18代 自由民主党総務会長 (総裁:三木武夫) (1974年 - 1976年) |
灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月21日 - 1994年(平成6年)1月22日)は、昭和時代の内務・厚生官僚、政治家。衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(36代)を歴任した。