掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1992/05/01〜1992/05/31 |
出身地 | 徳島県 |
生年月日 | 1922/05/15 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 東京女子大学 |
学歴その他 | 徳島高女 |
入社 | 大翠書院 |
配偶者 | 外務省、北京留学生 |
主な仕事 | 4歳下不倫、離婚、丹羽文雄入門、「女徳」「京まんだら」得度、天台寺主 |
恩師・恩人 | 今東光 |
人脈 | 武原はん・中原淳一(徳島同窓)、横尾忠則、流政之、小田仁二郎(恋)、遠藤周作 |
備考 | 祇園勉強、忘己利他 |
1922年 徳島県生まれ。小説家、天台宗の尼僧。 僧位は権大僧正。
出家を志して、多くの寺院にあたるも拒否されていたが、1973年に今春聴(今東光)大僧正を師僧として中尊寺にて天台宗で得度、法名を寂聴とする(戸籍上の氏名は、1987年に天台寺住職となった際に瀬戸内寂聴に改名)。
翌年、比叡山で60日間の行を経て、京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。尼僧としての活動も熱心で、週末には青空説法(天台寺説法)として、法話を行っている。
1.出家
どうして出家したのか。出家して19年も経った今でもまだよく人に訊かれる。この質問が私は大嫌いだった。こんな質問をする人は何も本気で訊いているわけではないのだ。ただ好奇心、それものぞき趣味の次元の低い好奇心からにすぎない。得度の挨拶状に、私は自然に導かれてこうなったと書いている。
仲の良かった遠藤周作さんに洗礼を受けたいというと、神父さんを紹介してくれ、この方と聖書を読んだ。それでも私が洗礼を受けることはなかった。なぜ天台宗かという問いもまた同様である。いつの間にか、私の知らない間に仏縁の糸が首筋や背に幾本もしっかり縫い付けられていて、それがある時、機が熟して、一つにまとめられ、一気に引き寄せられたのであろう。私が仏に近づいたのではなく、仏が私を、引っ張りよせたのだ。その力は強く、仏の意志に逆らうことは不可抗力だった。
2. 噂の女、アカン垂れの標本(夫・子供を捨て、父親を殺す)
「上京して小説の勉強がしたい。それには立派な師につかねばならぬ」など脳溢血で倒れて病床中の父を見舞いながら、訴えていた。父は「この出来損ないのバカ娘のために、もうひと踏ん張り稼がねば、姉の負担になるだろう」と気兼ねした。家に投げ込まれたチラシを見て、家の誰にも気づかぬ間に、自転車で、こんぴら灸という、旅回りの怪しげな灸術師のところへ出かけて行った。
頭のてっぺんに灸を据えられた途端、脳溢血の父はその場で倒れてしまった。電報で駆け付けた時、父は遺体となっていた。姉が「あんたがお父さんを殺したんよ」。父親思いの姉は私をなじった。
私は一言もなかった。夫・子を捨て父を殺し、私はれっきとした人でなしの鬼になった。私は故郷の小さな町でもはや優等生のハァちゃんではなく、噂の女であり、アカン垂れの標本になっていた。
3.子宮作家
1957年1月、「女子大生、曲愛玲」(チュイアイリン)は、第3回新潮社同人雑誌賞を受賞した。私は34歳だった。文壇では、曽野綾子さんや有吉佐和子さんたち20代の若くて美しい作家が既に大活躍していて、所謂才女時代という言葉が世間に流行し始めていた。私は出発の遅い、目覚ましくないスタートだった。
その上、受賞第1作のつもりで張り切って書いた「花芯」で子宮作家のレッテルを貼られ、5年間文壇から干された。誇張でも何でもない。文字通り干され、1作も5年間、文芸誌には載せてくれなかった。要するに、エロで演壇に媚びているというのであった。匿名批評家によってたかってやっつけられた。
あんまり癪に障ったので、そんなことを言う批評家はインポテンツで、女房が不感症なのだろうと私はタンカをきってしまった。
4.文士劇
女流文学賞を貰って1965年の11月に文士劇の方から声がかかった。作家や画家、漫画家が出演するので、それだけで客席は湧くのだった。芝居は河内山で、歌舞伎の当たり狂言の一つ。河内山に川口松太郎、自侍に村上元三、家老に今日出海、山岡荘八、波路の父が岩田専太郎、好色な松江の殿様が水上勉というキャストの中で、腰元波路が瀬戸内晴美ということだった。文士劇というのは、ほとんど稽古をしない。せいぜい全部で1時間くらいのなのである。すごい度胸の人ばかりだ。43歳の私が17,18歳の可憐な腰元に化けるだからこんなうれしいことはなかった。
寂聴さんが’21年11月9日に99歳で亡くなった。「私の履歴書」に登場は29年前の92年5月、70歳のときでした。彼女が国民から愛されていた証拠に、11月12日の全国版主要新聞は彼女の訃報を一斉に伝えていた。日経新聞は一面と27面とコラム「春秋」に、毎日新聞は一面と29面の全面とコラム「余禄」に追悼記事が書かれていました。最近では珍しい高い人物評価の採り上げでした。
彼女がベストセラー作家として波に乗っていた51歳の突然の得度は、世間を驚かせた。最後にこれを相談した今春聴(東光)師から、「決意はできたか」「はい」「髪はどうする」「おろします」「恋愛は?」「絶ちます」ときっぱりと答えたという。そして仏の道に入った。そして次のように「履歴書」に書いている。「出家するとは生きながら死ぬことだと私は心得て来た。身の周りに何が起こっても、私の目はすでに死者の目でそれを眺めている。生かされているのも御仏の意志なら、たった今この世での命を召されても御仏の心のままだと思っている。信は任すなりという言葉が、心にしっくりと収まってきた」と。
彼女の岩手県二戸市の青空説法や京都の寂庵と天台寺で開かれた法話には毎回、全国各地から会場に入りきれないほどの人が訪れ、笑い、涙していた。晩年の笑顔やユーモアあふれる語り口から想像しづらいが、社会活動もあった。連合赤軍事件の永田洋子元死刑囚(故人)との書簡交流を通して、死刑廃止論の立場を唱えた。また、2014年にSTAP細胞論文で一躍有名になった小保方晴子さんが、不正論文の一端を加担した責任から尊敬する笹井芳樹教授が自殺されたを知り、失意のどん底に陥り、心の救いを寂聴さんに求めたのもうなづける。常に弱者への視線を忘れず、人間の愛と孤独を平易に説くことができたのは、彼女の人生経験あればこそ、なのだろう。
「師僧今東光先生は、「死ぬまで書け」と遺言してくださった。70年生きて、私ほど多くのいい友人に恵まれている者は少ないのではないだろうか。出家ということは全てを捨離することである。恩愛までも。ところが私の場合は全てを捨て去った後に、周りに篤い友情だけが残っていた。それも御仏の賜りものと、有難く素直にいただいている」と書いている。
彼女が墓碑銘に望んだ言葉は「愛した、書いた、祈った」であったという。
瀬戸内 寂聴 (せとうち じゃくちょう) | |
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瀬戸内寂聴(2012年) | |
ペンネーム | 三谷晴美、三谷佐知子、瀬戸内晴美、晴美、ぱーぷる |
誕生 | 三谷 晴美 1922年5月15日 日本・徳島県徳島市塀裏町 |
死没 | 2021年11月9日(99歳没) 日本・京都府京都市 |
墓地 | 二戸市の天台寺 |
職業 | 尼僧・小説家 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 東京女子大学国語専攻部 |
活動期間 | 1955年 - 2021年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 | 『花芯』(1958年) 『夏の終り』(1962年) 『かの子撩乱』(1962年 - 1964年) 『美は乱調にあり』(1965年) 『花に問え』(1992年) 『現代語訳 源氏物語』(1996年 - 1998年) 『場所』(2001年) |
主な受賞歴 | 新潮同人雑誌賞(1956年) 田村俊子賞(1961年) 女流文学賞(1963年) 谷崎潤一郎賞(1992年) 芸術選奨(1996年) 野間文芸賞(2001年) 文化勲章(2006年) 泉鏡花文学賞(2011年) 朝日賞(2018年) 叙従三位(2021年、没時叙位) |
デビュー作 | 『痛い靴』(1956年) |
瀬戸内 寂聴 | |
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名 | 瀬戸内 晴美 |
宗旨 | 天台宗 |
寺院 | 寂庵 |
師 | 今東光 |
称号 | 権大僧正 |
瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年〈大正11年〉5月15日 - 2021年〈令和3年〉11月9日[1])は、日本の小説家、天台宗の尼僧。位階は従三位。俗名:晴美(はるみ)。僧位は権大僧正[2]。1997年文化功労者、2006年文化勲章[3]。天台寺名誉住職、徳島市名誉市民[4]、京都市名誉市民[5]、二戸市名誉市民[6]。天台寺住職、比叡山延暦寺禅光坊住職、敦賀女子短期大学学長を務めた。
作家としての代表作は、『夏の終り』『花に問え』『場所』など多数。1988年以降は『源氏物語』に関連する著作が多く、新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞した。
大正・昭和・平成・令和と4つの時代を生きた作家である[7]。