澤部肇 さわべ はじめ

電機

掲載時肩書TDK元会長
掲載期間2019/12/01〜2019/12/31
出身地東京都
生年月日1942/01/09
掲載回数30 回
執筆時年齢77 歳
最終学歴
早稲田大学
学歴その他早稲田学院
入社TDK
配偶者職場結婚
主な仕事社長室(28歳)、NY上場、磁気テープ事業、ルクセンブルグ、電池M&A
恩師・恩人大歳寛 佐藤博
人脈素野社長、田淵節也、谷井昭雄、上釜健宏
備考社外取締役情報
論評

氏(77歳)は、TDK出身では素野福次郎氏(74歳:1986年3月)に次いで「私の履歴書」登場が二人目である。素野氏は工業高校を卒業後、鐘紡に入社したが、5年後に齋藤謙三社長含め4人の小さなTDKに転職し、カセットテープを世界に売り一流企業に育て上げた人物だった。

澤部氏は28歳の時に社長室に配属され、三代目の素野氏や4代目社長の大歳寛氏にしごかれ、経営全般を学び経験させてもらった。しかしスタッフとしての経験であり、頭でっかちの人物だった。しかし、この氏を脱皮させるべく五代目社長佐藤博氏がルクセンブルグ欧州法人のトップに赴任させた。澤部氏は社長室仕込みの合理性で音楽用カセットとビデオテープの2ラインを同時立ち上げしたので、大幅な赤字を出した。そのため、最初の年のクリスマスパーティは質素そのものだった。飾り付けは無し、食事は会社の職員が作った山盛りのサンドウィッチに、町の工場から分けてもらったビールであった。従業員の女性には作業服のままで参加する無言の抗議をされたと書いている。この時に経営の厳しさ、経営責任の重大さに気付かされた。そして、ここに5年間在籍し経営を軌道にのせたが、日々の経営会議のメンバー約20人の国籍は8カ国、従業員は20カ国にもなり、グローバル企業の前線で会議運営のノウハウを身に着けたのが後の大きな財産となった。

氏は社長に就任してITバブルの崩壊にあう。02年デジタル化の大波である。アナログ時代のビデオテープは材料の磨き上げや工程の工夫で違いを出せたが、DVDは機械を買ってくれば誰でも作れる。TDKが生き残るには、コストではなく価値で勝負する会社に変身させることを決断する。そのため、給料8掛のワークシエアで乗り切る意見を抑え、大規模な人員削減を伴う構造改革で押し切った。氏は1970年代に一度秋田の工場で希望退職の送別会を経営者批判の立場で経験している。その時の苦い経験を自分が主導することになった。縁あって選び合い、会社に長い間貢献した人に去ってもらうのは断腸の思いだ。しかし、国内3257人、海外4511人のリストラを実施した。それが終わるころのOB会に前社長の佐藤氏が「あんたが出ていくと大変だから、俺が行くよ」と言い身代わりになってくれた。氏にとって大歳寛氏が恩人だと書いているが、私(吉田)には佐藤氏も大きく育ててくれた大恩人と思える。私にも人事担当役員時代、リストラを陣頭指揮した経験があり、そのつらさ、苦しさに眠れない夜が続いた。そして希望退職に応じてくれた人数も忘れられない。このリストラ後、TDKはコストではなく価値で勝負する会社に生まれ変わり、①新製品比率30%以上、②シエアトップ製品50%以上という目標数値に落とし込んで会社を牽引した。それが実り、現在では経営のグローバル化も進み、海外売上比率は9割を超え、海外株主比率も4割に達する超優良企業となっている。

また、氏は社外役員の経験を具体的に語ってくれていた。「野村HDは社長に若い外国人社員のブレインを付けて新しいことを提案させる仕組みがあった。多様な発想を受け入れる仕組みはすばらしい」など最近のグローバル経営に必要な発想や仕組み、人材育成は私には大変参考になった。

澤部 肇(さわべ はじめ、1942年1月9日 - )は、日本の経営者TDK社長、会長を務めた。

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