掲載時肩書 | 東北開発社長 |
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掲載期間 | 1960/10/28〜1960/11/20 |
出身地 | 宮城県 |
生年月日 | 1892/12/03 |
掲載回数 | 24 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 明治大学 |
学歴その他 | 台湾・釜山 |
入社 | 台湾銀行 |
配偶者 | 宮城県娘 |
主な仕事 | 台湾>釜山>工手学校、雑誌社、日本鋼管、鋼材連合会、昭和鋼管を合併、鉄鋼統制会、鋼管解体回避 |
恩師・恩人 | 白石元次郎 (浅野総一郎二女妻) |
人脈 | 大野伴睦(明大)、佐藤五郎、大川平三郎、渋沢正雄、平生釟三郎、永野重雄、河田重 |
備考 | クリスチャン、俳句、川柳、民謡(美声) |
1892年(明治25年)12月3日 – 1975年(昭和50年)2月27日)は、宮城県出身の実業家。1947年 公職追放となり、退社。東京窯業社長などを経て、国策会社である東北開発(現三菱マテリアル)初代総裁に就任(1957年 – 1961年)。明治大学理事長も務めた。
1.16歳で台湾に学資稼ぎ
「学府の東京」で苦学するには学費を500円ためなければならない。そのためには台湾でひと稼ぎして学費を貯えようと決めた。当時台湾まで行くのに30円あれば行けたので、貯金などで旅費をねん出した。
明治41年(1908)6月、数え年16歳で東北線新田駅から勇躍出発した。紺がすりの着物に兵児帯を締め、持ち物は着換え3,4枚と一年前からとっていた中学講義録数冊、それに、母から「船に酔ったらヘソの上に貼れ」と言われて梅干を10数個入れた信玄袋を担いで・・・それが私の旅姿だった。
2.昭和鋼管と鶴見製鉄造船を日本鋼管に合併
昭和13年(1938)には第三次の高炉建設が完成し、間もなく私は取締役となった。このころ昭和鋼管の合併をもくろみ、渋沢正雄氏と昭和鋼管の大株主、川崎重工業の平生釟三郎さんに合併を持ちかけた。渋沢氏は反対したが、平生さんが賛成されたので、白石元二郎社長、平生、渋沢、私と4人が星ヶ岡茶寮で会食した。それを契機にトントン拍子に進み、10年6月合併した。そして平生さん、渋沢さん、鋳谷正輔、川崎芳熊さんなどが重役として入ってきた。
この合併後、間もなくして鶴見製鉄造船を合併しようという話が再燃した。この話は一時難航したが、初代浅野翁が亡くなり、二代目総一郎氏は浅野セメント、次男の良三さんが鶴見の社長となり、鋼管の方も大川平三郎さん亡くなって白石さんが社長になるなどから情勢が好転したため、話はうまく運んで15年10月に鶴見と合併し、ここに鋼管は資本金1億4千万円、日産千五百トンに達し、日鉄に次ぐ日本で第二の一貫メーカーとなったのである。
3.日本鋼管解体の危機回避
白石さんが亡くなられて間もない昭和20年(1945)12月29日、取締役会で正式に浅野良三さんが社長、私が副社長になったが、翌年4月浅野さんがパージになり、私が社長に昇格した。51歳のときである。
私が社長になった当時、アメリカ占領軍の対日処理方針が分かってくるにつれ、鋼管がアンチトラスト政策により解体を命ぜられる危険が濃かった。そこで私は鉄鋼、ドック、造船、合金鉄(富山、新潟工場)の4つに解体再建しようと計画、河辺、馬場(二世の青年)の二人を秘書兼通訳として交渉を始めた。その頃は賠償問題もあったので、私はGHQと交渉するとき、彼らに日本鋼管はガス管から始めたもので、性格は平和産業であるということを吹き込むのに全力を注いだ。
この工作は命の縮まる思いだったが、それが良かったためか21年8月に発表になった賠償指定505工場に鋼管は1工場も入らなかった。日鉄の広畑、輪西、八幡、吾嬬製鋼などが全面撤去、住友伸銅、東都製鋼が半撤去という強いものだったから、鋼管が入っていないのは全く不思議といえた。
4.東北開発会社に奉職
東北開発会社の前身は東北興業といって、昭和10年(1935)の冷害、水害などで痛めつけられ通しの東北、特に農村を救済するために特別立法でつくられたもの。ところが戦後、占領軍が特殊会社とみて政府資金を断ってしまい、半分潰れかかった借金ばかりの苦境企業に陥っていた。そこで政府は昭和31年(1956)に東北興業を改組して東北開発の中核企業体として東北開発会社をつくることになった。最初は郷古さんが総裁で私が副総裁という話だったが、郷古さんが辞退したので私が総裁となった。