掲載時肩書 | 作家 |
---|---|
掲載期間 | 2009/12/01〜2009/12/31 |
出身地 | 和歌山県 |
生年月日 | 1929/03/23 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 東北大学 |
学歴その他 | 和歌山中 |
入社 | 神島化学(藤田財閥系) |
配偶者 | 初子25歳 |
主な仕事 | 被災体験克明、不動産業、小説家、直木賞「深重の海」、剣豪もの、歴史「下天は夢か」、親鸞 |
恩師・恩人 | 富士正晴 |
人脈 | 武部利男、川口松太郎(剣道見抜く)、中村泰三郎先生(抜刀)、東郷重政先生(示現)、柳生延春先生(新陰)、佐川幸義先生(合気) |
備考 | 剣道三段、抜刀道五段 |
〈昭和4年〉3月23日 – 2018年〈平成30年〉5月26日)は和歌山県生まれ。小説家。題材は主に剣豪や戦国大名、幕末英傑を主題にした歴史小説が多い。撃剣興行を描いた『明治撃剣会』を始めとする剣豪小説で人気を得る。剣道三段、抜刀道五段の腕前を持ち、武道への造詣が深く、剣豪だけの持つ高い境地や剣技の精密な描写をすることに長じる。戦国時代の塚原卜伝、柳生新陰流の柳生兵庫助、示現流の創始者東郷重位、江戸時代後期の北辰一刀流の千葉周作らの伝記小説において活写されている。
1.被爆直後の無常観
昭和20年(1945)1月19日、12時半頃に、真紅の空襲警報旗が出され、サイレンが唸り始めた。和歌山中学隊は整列して、工場正門を出て、国道を横切り、和坂の丘陵にでた。ポォン、ポォォン、ポンポンと、射程距離6千mの高射砲が鳴り始めた。B29が8機、1万mの高空を美しく輝きながら、頭上に迫ってきた。
傘形にひらいた8機のB29が、地表から45度の角度の辺りへさしかかったとき、真っ赤な小さい球体を落とした。音響ではない信号弾の全身を震わす衝撃波のようなものに動転し、私は横穴壕へ駆け込み、壁際のベンチの間の、人糞が転がっている地面に、親指で耳、中指で目を押さえ、左膝を曲げる待避の姿勢をとった。赤いのは信号弾で、それに続き爆弾が落とされたのに気づかなかったのだ。
鉄の洗面器を頭にかぶり、風呂に身を沈め、上からハンマーで殴られるような、異様な音響であった。地面が水の揺れるように動く。必死で耐えるうち、静かになった。ほうほうの態で我々は壕から飛び出した。後で分かったが、私のいた壕の周囲数10m以内に、地上6階地下2階のビルを貫通する威力を持つ、250キロ特殊爆弾が6発落下し、10数m離れた壕に直撃弾が命中、和歌山県田辺家政高女性徒14人が即死していた。白昼は白木の棺を積んだトラックが蓋(ふた)の下から死体の手足をはみ出して走っていた。
私はその後、電車、自動車の動揺、雷の音響を気にするようになった。その習性は25,26歳頃まで続いていた。私の身内には、人の命が如何にはかないものかという無常感が松の根のように食い込んでいた。
2.同人雑誌「VIKING」
昭和39年9月末、私は初めてVIKING例会に出席した。同人が30数人、維持会員が150人ほどであった。同人のうちには、芥川賞、直木賞候補になった者が大勢いると聞いた私は、浜芦屋会館の会場にゆくと緊張して、長椅子を前に居並んだ人々の顔を見る余裕がなかった。
自分の名を書いたボール紙を、紐で首から下げるのが恥ずかしい。小説のプロのなかに迷い込んだ門外漢だと思うと、はなはだ居心地が悪い。しかも向かいの机に丸顔の小柄な人の名札を見れば、富士正晴と読めた。ときどき新聞で見かける、VIKINGキャップテンであった。会社では上司、入社年次の古い順番に、相応の儀礼を尽くさねば、無作法者として嫌われるだけでは収まらず、露骨な叱責を受ける。だが、ここでは見ていると、女性同人が座について富士さんと目が合うと、無言でうなずくだけであった。雑誌に掲載した作品の合評が始まる。始めは数編の詩で、雑記、小説に移ってゆく。
私は95枚の「丘の家」がVIKINGの昭和41年(1966)7月号に掲載された。好不評が半々であったが、富士さんは褒めてくれた。「君の作品は削るべき部分が多いが、それは先に伸びる傾向を期待できる特徴や。部分を継ぎ足さんといかん作品は、難儀や。その点で期待が持てる」とも励ましてくれた。
3.剣豪小説を書いてストレス発散
私は剣道有段者であるので、真剣で庭木の枝を切り払ったことが一度あるが、本当の切れ味は知らない。だが1、2キロ前後の日本刀をふる体のひねりとか手の返し方はおよそ想像がつく。そのあと、剣豪小説執筆依頼が相次ぎ、私は「ネオ剣豪作家」と呼ばれるようになった。
八十分の一秒という速度で、胴一つの巻藁(わら)を何の手ごたえもなく切れる、日本刀の凄まじい刀味を知った私は、人を斬る場面の多い剣豪小説を書きつつ、身内に溜まったストレスを吐き出していた。
氏は’18年5月26日89歳で亡くなった。氏の「私の履歴書」登場は2009年12月で80歳のときであった。
氏はこの「履歴書」で少年期と和歌山中学時代を初日から20日までの長い期間、克明に書いている。それは和歌山中学4年生時に軍事工場で過酷な労働を強いられた時、集団脱走を計画し失敗した話、明石でB29の爆撃による同僚や上司の無残な死を紙一重の差で経験したことである。数度の爆撃と焼夷弾攻撃、機銃掃射を受け、機銃弾を頭や胸に受けた死体が、どのような有様になったかを身の毛がよだつような描写であった。この経験が氏の歴史小説の中に虚無感を感じさせるものが出てくるのだろう。
初期は企業小説などを執筆したが、剣道3段、抜刀道5段の経験を活かし、戦後の第二次剣豪小説ブームの火付け役となった。氏は「八十分の一秒という速度で、胴ひとつの巻藁を何の手応えもなく斬れる、日本刀の凄まじい刀味を知った私は、人を斬る場面の多い剣豪小説を書きつつ、身内に溜まったストレスを吐き出す。そのうち、いつからか歴史小説に移っていった」と述懐している。
歴史小説で氏は、「人生の動きには、常に運が絡みついている。ある者は、奈落の底に沈みこんでいる生涯から、何かのきっかけで浮き上がり、考えもしなかった大成功をして、幸せな一生を送る。ある者はいったんは成功の絶頂にいながら、わずかなきっかけで気づかぬうちに功業に陰りがさしはじめ、立ち直ろうと努めても、すべての当てが外れ、あがけばそれだけ没落の勢いが早まり、短い期間に没落、窮死する。戦国武将の生涯には、その過程が鮮明に刻まれている」と思い、自分も運によって生かされた境遇だと書いている。
津本 陽 (つもと よう) | |
---|---|
誕生 | 津本 寅吉 1929年3月23日 和歌山県和歌山市 |
死没 | 2018年5月26日(89歳没) 東京都文京区 |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1966年 - 2018年 |
代表作 | 『深重の海』 『塚原卜伝十二番勝負』 『下天は夢か』 『柳生十兵衛七番勝負』 『薩南示現流』 |
主な受賞歴 | 直木三十五賞(1978年) 吉川英治文学賞(1995年) 紫綬褒章(1997年) 旭日小綬章(2003年) 菊池寛賞(2005年) 歴史時代作家クラブ賞(2012年) |
デビュー作 | 『丘の家』 |
ウィキポータル 文学 |
津本 陽(つもと よう、1929年〈昭和4年〉3月23日 - 2018年〈平成30年〉5月26日)は、日本の小説家。本名、寅吉(とらよし)。