掲載時肩書 | 前国務大臣 |
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掲載期間 | 1957/03/25〜1957/04/09 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1898/06/02 |
掲載回数 | 15 回 |
執筆時年齢 | 59 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 朝日新聞 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 昭和7年.代議士(父:県会議員)、農村大 臣(人工授精)、日露漁業、鳩山内閣・大臣 |
恩師・恩人 | 杉浦重剛、山本悌次郎 |
人脈 | 二宮尊徳妻(姉)・曾祖母(妹)、謙三(弟)、尾崎一雄・石黒敬七(同級)、砂田重政、平塚常次郎、三木武吉、宇垣一成、石橋湛山、 |
備考 | マラソン不正 |
1898年〈明治31年〉6月2日 – 1965年〈昭和40年〉7月8日)は神奈川県生まれ。政治家。昭和中期の政界実力者の一人。自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」と呼ばれた。農林大臣時代と建設大臣時代にそれぞれ大臣としての権限を発揮して事務官と技官の棲み分けといった旧例を無視する形で官僚人事を断行した。
1.不正で、マラソン優勝
大学卒業の年に私がマラソン競走でインチキをして勝ったことを加えておきたい。当時早稲田の運動会というものは東京名物の一つであったほど盛んなものであった。私はこれが早稲田の学生として最後の運動会だから、一つマラソン競走では一着の賞品をとってやろうと考えていた。そのころ私の弟でいま参議院議員になっている謙三と、のちに読売新聞記者になった縄田尚門君の二人だけがどうしても私より強い。
当時のコースは今の大学の野球場を出て目白の坂を上がり、学習院の前を通って練馬まで行って帰ってくる10マイルのコースであった。私は、ようし二人が勝ちを譲ってくれないなら、こっちも上手を行くまでだ。彼らが先に走って行くのを途中で待っていて、先に帰ってくれば俺が一番じゃないかという名案を考え、目白の先まで行って、待っていた。
そのうち彼らが向こうから引き返して走ってきた。その姿を見てから引き返して運動場に入り一着になって賞品を貰ってしまった。それで弟と縄田君がひどく憤慨して、引き返し点まで行かずに一着ということがあるかと文句をつけるのだが、私は「行っても行かなくても賞品を貰ったものが勝ちだ」といってすましていた。
当時はいわば学生らしい冗談交じりのことなのだが、その話が最近しきりにやかましく言われるのでいささか私も往生している次第だ。
2.人間の価値は?
大学の4年間は、マラソンの選手をして、結局何も勉強しなかったが、朝日新聞記者時代の10年間の勉強こそは、今日自分に多少世の中のことをわかるようにさせてくれた根源であった。
大学院や大学の研究室が人間を完成させる場所というなら、新聞記者の生活も決してこれに勝るとも劣らないと考える。毎日毎日、自分より経験の深い人や勉強している人を相手にして暮らすのだから、これほどいい試練の場所はない。大学の成績がいいとか悪いとかということは大したことではない。大学を出てからの10年、20年、二十代、三十代をどういうふうに送るかということが、人間をつくる上において一番大切なことだと思う。だから、かっての軍人や役人のように、学校の成績がどうだとか、帝大を出たとか出ないとか、そんなことで将来を律するような会社の組織は、根本的に間違っていると信じている。
3.家畜の人工授精奨励
私の半生を通じてもっとも熱心に尽力もし努力もしたものは日本の畜産に関する問題である。神奈川県中郡畜産組合長として、おそらく全国でも模範的な屠殺場の新築、改善をはかり、同時に全国でも有数の酪農地帯として中郡を建設し、郡内一円にわたって牛乳の改良に大いに努力した。今日でこそ全国で牛馬羊豚、すべてに家畜の人工授精を奨励しているが、わが国で初めて取り上げて奨励を始めたのは私の事業である。
当時世界でもソ連が最も熱心に家畜の改良のための人工授精を奨励しているという話を聞いて、私も政府を督励し、民間の団体を奨励したのである。
河野 一郎 こうの いちろう | |
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1953年12月23日撮影 | |
生年月日 | 1898年6月2日 |
出生地 | 日本神奈川県足柄下郡豊川村(現・小田原市) |
没年月日 | 1965年7月8日(67歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部 |
前職 | 朝日新聞社社員 農林大臣秘書官 |
所属政党 | (立憲政友会→) (無所属→) (翼賛政治会→) (日本自由党→) (無所属→) (自由党→) (分派自由党→) (日本自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
配偶者 | 妻・河野照子 |
子女 | 次男・河野洋平 孫・河野太郎 |
親族 | 父・河野治平 弟・河野謙三 |
内閣 | 第3次池田改造内閣 第1次佐藤内閣 |
在任期間 | 1964年7月18日 - 1965年6月3日 |
内閣 | 第1次佐藤内閣 |
在任期間 | 1964年11月9日 - 1965年6月3日 |
内閣 | 第3次池田改造内閣 |
在任期間 | 1964年7月18日 - 1964年11月9日 |
初・第2代 近畿圏整備長官 | |
内閣 | 第2次池田第2次改造内閣 第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 |
在任期間 | 1963年7月10日 - 1964年7月18日 |
第10-11代 首都圏整備委員会委員長 | |
内閣 | 第2次池田第2次改造内閣 第2次池田第3次改造内閣 第3次池田内閣 |
在任期間 | 1962年11月2日 - 1964年7月18日 |
その他の職歴 | |
第21-22代 建設大臣 (第2次池田第2次改造内閣、第2次池田第3次改造内閣、第3次池田内閣) (1962年7月18日 - 1964年7月18日) | |
第20-22・30代 農林大臣 (第1次鳩山内閣、第2次鳩山内閣、第3次鳩山内閣) (1954年12月10日 - 1956年12月23日) (第2次池田第1次改造内閣) (1961年7月18日 - 1962年7月18日) | |
第5代 経済企画庁長官 (第1次岸改造内閣) (1957年7月10日 - 1958年6月12日) | |
第14代 行政管理庁長官 (第3次鳩山内閣) (1955年11月22日 - 1956年12月23日) | |
衆議院議員 神奈川県第3区 当選回数 11回 (1932年2月21日 - 1946年6月22日[1]) (1952年10月2日 - 1965年7月8日) | |
第4代 自由民主党総務会長 (総裁:岸信介) (1958年 - 1959年) | |
初代 日本自由党幹事長 (1953年 - 1954年) |
河野 一郎(こうの いちろう、1898年〈明治31年〉6月2日 - 1965年〈昭和40年〉7月8日)は、日本の政治家。副総理、日本自由党幹事長、自由民主党総務会長。昭和中期の政界実力者の一人。春秋会(河野派)会長、領袖。
自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」[2] と呼ばれた。農林大臣、建設大臣、経済企画庁長官、行政管理庁長官、副総理、国務大臣(東京五輪担当)を務めた。また、地元神奈川県県政にも強い影響力を持ち、県は「河野王国」とも呼ばれた。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。また伊勢神宮社家の生まれである榊原辰雄とも親交が深かった。
参議院議長を務めた河野謙三は実弟。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表を務めた河野洋平は次男。外務大臣、防衛大臣、規制改革担当大臣を務めた衆議院議員の河野太郎は孫にあたる。