掲載時肩書 | 創価学会会長 |
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掲載期間 | 1975/02/01〜1975/03/04 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1928/01/02 |
掲載回数 | 32 回 |
執筆時年齢 | 47 歳 |
最終学歴 | 短期大学 |
学歴その他 | 東洋商業 |
入社 | 新潟鐵工所 |
配偶者 | 友人妹 |
主な仕事 | 印刷会社、創価学会(人間革命、宗教革命)、出版、少年日本、聖教新聞、東洋学術研究所、創価学園 |
恩師・恩人 | 戸田聖城 二代目会長 |
人脈 | 戸田前社長、西城八十、牧口常三郎(初代会長)、池田勇人(近所)、東山魁夷、周恩来 |
備考 | 家・海苔業 |
1928年1月2日 – )は東京生まれ。宗教家、作家。宗教法人・創価学会の名誉会長、SGI(創価学会インタナショナル)会長。随筆、小説、対談集などの他、仏法哲学の解説書、子ども向けの童話なども執筆している。また、写真家・詩人としても活動している。国家指導者を初め、教育者、文学者、科学者、芸術家、社会活動家などと会見を多数行ない、発刊した対談集は50にも上る。特に印象に残った人物として周恩来を挙げている。「名優のごとく、言葉がわかりやすく、しかも深い。鋭さと温かさがある。」と評している。また、海外の大学・学術機関で講演を多数行なっている。
1.運命の出会い
1945年の敗戦後、生活様式が大きく変わり、既成の価値観が逆転し、あわただしく変動する時代に、いかに生きていくかは難しい問題であった。家の付近に住む20歳から30歳ぐらいまでの学生、技術者、工員、公務員など20人ほどの青年たちが集まって、読書サークルを作っていたが、私もメンバーに加わり、人生の指標を探していた。
2回目の終戦記念日を迎えようとしていた蒸し暑い真夏の夜である。小学校時代の友達が訪ねて来て「生命哲学について」の会があるから来ないかという。私は興味を持った。約束の8月14日、読書グループの二人と連れ立って、その「生命哲学」なるものを聞きに行った。占領下の東京、城南一帯はまだ焼け野原。小さなバラックや防空壕が未だに存在している。夜8時過ぎ、街灯もない暗い道を歩いて行った。めざす家の玄関を入ると、20人ばかりの人々がいたが、ややしゃがれた声で、屈託ない声で喋っている40代の人の顔が目に入った。広い額は秀でており、度の強い眼鏡の奥が光る。この人物が、私の人生を決定づけ、私の人生の師となった戸田城聖先生であった。
2.人生の師:戸田城聖先生
先生の座は、不思議な活気が燃えていて、自由闊達な話を聞いていると、いかなる灰色の脳細胞でも燦然と輝きだすような力があった。初対面ながらも不思議に親しみの情が沸き上がってくるのを禁じえなかった。講義と質問への応答が一段落すると、戸田先生は微笑しながら「いくつになったね」と尋ねられた。仁丹をかみ、タバコをふかしておられた。19歳ということを耳にして、ご自身も故郷の北海道から東京へ初めて上京した時もそんな年ごろだったと懐かしげに語られる。
私は、教えてください、と質問した。「正しい人生とは」「本当の愛国者とは」「天皇をどう考えるか」、この3点であった。簡明直截な、しかも誠実な答えが返ってきた。少しの迷いもなく、理論をもてあそぶようなこともない。「これだ!」と思った。この人の言っていることは本当だ!私は、この人なら信じられる、と思った。深い深い思いに耽り、自己の心の山々の峰をいかに越えようか、と考えながらも結論が得られず悩んでいた私にとって、戸田先生との邂逅(かいこう)は決定的な瞬間となってしまった。私はとてもうれしくなった。
3.公明党の創設
恩師戸田先生が会長推戴の席で終生の目標として掲げていた75万世帯は、昭和32年(1957)の暮れに見事に達成され、拡大の運動の波はなお上げ潮に乗っていた。前年の31年7月の参議院選には創価学会の推薦をうけた3人が当選、3人が落選。学会がいろんな意味で注目されだした頃でもあった。
その選挙では私は大阪地方区の最高責任者として臨み、白木義一郎候補(現参議院議員)が第3位で当選した。当時の新聞は「まさか、が実現」「予想を覆す」「大番狂わせ」などと報じた。公明党は私が創始したのであるが、現在は明確に政教分離している。ともかく、日本の民衆のため、福祉政治の実現のために、党の貢献を期待したい。
氏は2023年11月15日、95歳で亡くなった。この「履歴書」登場は1975年2月の47歳の時でした。
1.生まれてすぐ“捨て”られた私
子(ね)年生まれの父は、名も子之吉といい、母は一(いち)で、私はその五男である。妙なことだが、生まれてすぐ私は捨て子にされた。私の生まれた昭和3年(1928)に、父は41歳で、ちょうど前厄の年に当たっていた。それで厄除けの迷信的風習から、私はとんだ目にあった。もっとも捨てた途端に、拾う人があらかじめ決めていて、そんな手はずになっていた。
ところが知人が拾う前に、誰かが拾って駐在所に届けてしまったから、一時は大騒ぎになった。消えた嬰児(えいじ)に、父母は大慌てにあわてたらしい。この話はよく聞かされたが、迷信はともかくとして、父母の心情には私が丈夫に育ってほしいという祈願が込められていたのだろう。
2.小説「人間革命」
昭和20年(1945)7月、恩師戸田先生が豊多摩刑務所(中野刑務所)から出獄された。これを本の冒頭に書きだしたいと思った。私は、いよいよ執筆を開始しようとしたとき、いずこの地で一枚目を書こうかと考えていた。そして、もっとも日本列島のなかで、悲惨と苦渋をなめた沖縄の地でしたためたいと思ったのである。そして「昭和39年(1964)12月2日より書き始む」で果てしなき道に踏み込んだのであった。
この書の主題は、一人の人間における偉大なる人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換も可能にする、ということである。後世の歴史の審判をあおぐ、証拠の書として私は書いていきたい。
3.日経新聞の「評伝」2023年11月19日朝刊
1928年、現在の東京都大田区でのり製造業を営む一家の五男として生まれた池田氏は、病気と生活苦に追われる青年時代を過ごし、19歳で創価学会に入会した。
学会はもともと日蓮正宗の在家講(信者組織)として教育者の牧口常三郎が設立。池田氏は第2代会長・戸田城聖のもとで青年部参謀室長などを歴任し、戦後の信者数急拡大に貢献して頭角を現した。
58年に戸田会長が死去した後、60年には第3代会長へ就任。池田氏に指導された青年らが学会の枢要を占めるにつれ、氏のカリスマ性は強まっていった。
79年には名誉会長に就任したが、組織上のあつれきから日蓮正宗との決別に発展。91年に日蓮正宗から破門された池田氏は、寺に代わって活動の拠点となる文化会館を各地に作り、僧侶を呼ばない友人葬を広めるなど独自の行き方を示した。このように創価学会を実質的な〝池田教〟と言われるような一枚岩の体制につくり上げた。
池田氏のもとで創価学会が急成長をとげたのは、戦後日本の復興と高度経済成長の歩みとほぼ軌を一にする。故郷を遠く離れ、職を求めて東京などの大都市やその近郊に移り住んだ人々の不安を巧みにすくい上げ、物心ともに豊かな生活をめざす運動として学会を先導したのが池田氏だ。
キリスト教などの既存宗教が持つ来世への志向はさほど前面に出さず、現世の幸せのあり方を追求する姿勢が多くの信者獲得をもたらした。池田氏という巨大なカリスマを失った後、公称800万世帯を信者に擁する創価学会の行方は不透明だ。他の多くの宗教と同じく新規の信者獲得は伸び悩み、家族の間での信仰承継という問題もある。公明党との関係など政治面での影響も見逃せない。学会がたどる道は、依然として日本の将来の動向と深くかかわっているといえる。(郷原信之)
池田大作 | |
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2010年撮影 | |
肩書き | 創価学会名誉会長 創価学会インタナショナル会長 創価大学名誉博士・名誉教授 準学士(富士短期大学) デンバー大学名誉教育学博士 (詳しくは#顕彰を参照。) |
別名 | 山本伸一、法悟空 |
個人情報 | |
生誕 | 1928年1月2日 |
死没 | 2023年11月15日(95歳没) |
宗教 | 創価学会 |
配偶者 | 妻・池田香峯子 |
子供 | 長男・池田博正 二男・池田城久 三男・池田尊弘 |
出身校 | 富士短期大学卒業 |
別名 | 山本伸一、法悟空 |
地位 | |
任期 | 1960年5月3日 - 1979年4月24日 |
地位 | 第3代 創価学会会長 |
池田 大作(いけだ だいさく、1928年〈昭和3年〉1月2日 - 2023年〈令和5年〉11月15日[1])は、日本の宗教家、作家。創価学会名誉会長。
創価学会会長(第3代)、創価学会インタナショナル(SGI)会長などを歴任[2]。山本 伸一や法悟空のペンネームで作家活動も行っていた。