掲載時肩書 | 九州電力前会長 |
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掲載期間 | 1989/09/01〜1989/09/30 |
出身地 | 佐賀県 |
生年月日 | 1910/02/15 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 佐賀高校 |
入社 | 東邦電力 |
配偶者 | 戦時中の見合い |
主な仕事 | 中国派兵、九州配電、ビルマ(インパール生き残り)作詞、九州電力、玄海原子力発電、九州経済連合、JR九州 |
恩師・恩人 | 松永安左エ門翁 |
人脈 | 小林五郎、田中精一、進藤武左エ門、鈴木道明、瓦林潔、八代亜紀(レコード) |
備考 | 安岡正篤門下生 |
明治43年(1910)2月25日-平成5年(1993)10月20日)佐賀県生まれ。 昭和時代の実業家。昭和9年東邦電力に入社。戦後統廃合で発足した九州電力で地熱発電,火力発電,原子力発電を推進。49年社長,58年会長となる。福岡県体育協会会長,NHK経営委員。佐賀県他に会社・財界役員等多数兼任し、九州財界のリーダーとして活躍。JR九州初代会長、九州・山口経済連合会会長も務めた。
1.インパール作戦後の死闘
昭和19年(1944)秋、日本軍はインドシナ各地で連合軍の猛攻にあって玉砕を重ねていた。主計中尉の私は、ラングーン(現ヤンゴン)に近いキャウタンのゴム林にある「狼兵団」と呼ばれた第49師団司令部に合流、激戦が伝えられるビルマ(現ミャンマー)中央部の」メークテーラ奪還を目指した。インパール作戦に失敗した31、33、53師団、雲南から退却してメークテーラ防衛を目指す15、18師団も大半の戦力を失い、最大の部隊は私たちだった。しかし、英印軍は戦車旅団による包囲攻撃や航空機の銃爆撃で圧倒した。
翌年3月24日、文字通りの死闘であった。小型爆弾の投下と機銃掃射から身を守るため、「タコ壺」と名付けた個人用の防空壕を掘った。ミンダンで朝の炊事が終わったころ、敵軍の空爆が始まり、「おーい、永倉、危ないぞ」という声がかかった。私は兵隊全員を退避させてから、横の大木の下にしゃがんだ。小型爆弾がその大木に落ち、私は下半身を土中に埋められたが、すぐに機銃掃射が続くことが分かっており、自分の「タコ壺」を目指した。ところが、そこには「先客」がいた。やむなく別の大木の陰に退避したところ、私の「タコ壺」にもう一つの爆弾が降ったのである。すぐに掘り起こしたが、既に「先客」の息はなかった。
メークテーラ会戦における防衛庁戦史編によると、18師団(戦死580人、戦傷426人、行方不明563人)、49師団(戦死4160人、戦傷753人)である。敵軍包囲下の、消耗戦の果ての撤退となった。
2.退却時の食糧調達
インパール会戦からラングーン方面、タイ国側へ退却行が始まった。凄絶な退却戦ではあっても、たどりつく拠点での生活はあった。食糧の確保は経理部の任務であり、あらゆる手段を講じて調達しなくてはならなかった。人が逃げ出して空き家になった家から米や塩を集め、飼っていた牛を捕まえて殺し、食肉用に分配した。皇軍兵士が、物取り同然に駆け回るのだった。牛といっても大半は水牛で、肉は固くて歯が立たなかった。食用になる普通の牛を探し、岩塩で味付けして毎日のように食べた。
衣も食も困窮の極みにあったが、さまざまな職歴を持つ兵隊がおり、自活のため、身の回りにあるものでいろいろ物資を工夫してつくった。医療用のアルコールとして腐敗しかかった米を集めて発酵させると、高濃度の焼酎ができた。これを10日ほど瓶に入れておくと、黄ばんだ色が付き、上等のウィスキーの味になっていた。作った渡壁石松主計の名前を取って「銘酒石の松」と命名、時折「胃の薬」と称して使った。現地で採集した植物で製造法を研究し、相当量の紙らしきものも作った。ゴムからガソリンの代替燃料も開発した。いずれも部隊の“専門家”たちの努力の結晶である。
3.松永安左ヱ衛門翁が九州電力の役員人事を指導
父が松永翁のお世話になった関係で、学生時代、東京・目白の林泉園の一角にあった翁のお宅に、時々お邪魔することがあった。帰省して東京に戻る時、父の命令で有明産のムツゴロウを生きたまま箱詰めにして届けるのである。これを東京に着くと姉のところで串焼きにして、お宅へ持って行った。
翁は戦前から電力の国家管理反対の立場を明確にするなど、先見の人だったが、何事も自分の考え通りにしなければ気が済まない独特の強い個性を持っていた。戦時中、一線を退いて小田原に隠遁していたが、戦後、電力再編で調整役に白羽の矢が立や、その個性はいかんなく発揮された。新しい九州電力の役員人事を、実質的にさばいたのは翁だった。東邦電力を作った翁は子飼いの東邦出身の佐藤篤二郎・九州配電社長をトップに据えたのだった。
4.電源開発の要諦
電源開発は、もたらされる利便と地元が失うものとのバランスの上で成立する。それがこじれると「蜂の巣城」で全国に名をとどろかせた下筌(しもうけ)ダム抗争のような事態も生じる。交渉で私が一貫して心掛けたのは「ウソは言わない」「約束は守る」の2点だった。しかし一度だけ、難局打開のために大芝居を打った。
上椎葉の下流に諸塚揚水発電所を計画していた折、地元の要求が著しく法外で、これを飲んでしまってはその後の開発に悪影響をもたらすことが懸念された。周辺にはダム建設を見込んで商店、食堂なども建ち始めていた。私はそうした地元の情勢を読んだうえで、工事の一時中止、工事要員の採用停止を打ち出した。新聞報道などで不安が広がり、ほどなく地元側の姿勢は建設協力へ一転した。虚々実々の駆け引きだったが、これは勝負の場での一種の気合のようなものだったと思っている。