掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1984/08/19〜1984/09/17 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1904/05/20 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | 商業学校、英語学校 |
入社 | 米相場奉公 |
配偶者 | 奥野悦子(久米正雄夫人妹) |
主な仕事 | 生活苦、16歳「活版屋の話」林商店、「黒い御飯」「山繭」、文藝春秋社、満州文芸春秋、専務 |
恩師・恩人 | 上島金太郎、菊池寛 |
人脈 | 波多野完治、小林秀雄、御手洗辰雄、横光利一、堀辰雄、今日出海、池島信平、佐々木茂索 |
備考 | 久保田万太郎夫妻媒酌 |
5月20日 – 1990年(平成2年)10月12日)は東京生まれ。小説家、随筆家、編集者。1920年(大正9年)(16歳)、文芸誌『サンエス』に投稿した「活版屋の話」が当選。16年年長の選者菊池寛の知遇を得る。1922年帝国劇場の募集脚本に「出産」が当選。1923年(大正12年)、「黒い御飯」が創刊直後の『文藝春秋』誌に掲載。1924年、小林秀雄、石丸重治、河上徹太郎、富永太郎らと同人誌『山繭』を刊行する。1927年(昭和2年)(23歳)、文藝春秋社に就職を希望し菊池寛社長を訪ね、居合わせた横光利一の口利きにより入社。『手帖』、『創作月刊』、『婦人サロン』の編集につぎつぎに当たった。1932年、『オール讀物』の、次いで『文芸通信』の編集長となった。編集者生活の傍らで創作の発表も続けた。
1.処女作「活版屋の話」
大正9年(1920)、文芸雑誌「サンエス」9月号に、私の応募した短編小説「活版屋の話」が当選した。選者は当時新進作家の菊池寛氏で、選評が好意的であった。「―この題材なら、選者自身も一寸短編に書いて見たいと思う位である。芥川・久米・宇野等に、この小説の内容を話すと彼らは、みな会心の微笑を洩らした」とあり、作者はまだ年少らしく云々と、親切な注意も払っていた。
私は16歳であった。二十枚何銭かの原稿用紙を文房具店で買ってきて、確かに投書はしたが、書いたものの良し悪しは論外だから、そんな結果になるとは夢にも思っていなかった。だから、当選とか活字になったとかは、他人事のように聞き、尊敬する菊池寛氏に自分の作品を一読してもらった幸福感に酔った。
2.下町神田の風物3・・大正10年(1921)頃
(1)まず、救世軍がある。大提灯を先頭に、大太鼓の音を弾ませて、宵の町を小隊を組んで巡回した。神保町に立派な建物の救世軍本部があり、別に駿河台下に「福音伝道会」があった。同じプロテスタント派だと思うが、近所で2つに分かれて、同じような伝導方法を取っていた。太鼓とタンバリンに合わせて、「ヤソ信ぜよォ、信ずる者は誰も、みな救われん」と歌い、「今晩、駿河台下福音伝道会に於いて、キリスト教の説教があります。みなさん、お集まりください」と、5,6名の男女が回って来る。
(2)救世軍は軍服だが、一方の人達の服装はまちまちであった。季節に関係のない行事だが、小雪のちらつく冬の宵に最もふさわしい風景で、劇の序幕を思わせた。救世軍も負けずにメガホンを使い慈善鍋への勧誘に励んだ。これに勢いを貸すのが、歳末大売り出しのジンタとイルミネーションであった。
(3)演歌師とヘラヘラした歌声と、やたらギイギイ鳴らすバイオリンとは、どうしても夏場のものだった。バイオリン片手と、歌の文句を印刷した薄っぺらの本売りとが一組で、衣類はとにかく大学生用の角帽をさも学生らしく被っているのが定石だった。
3.小林秀雄との出会い(いたく寂しげな様子)
大正13年(1924)2月17日の日記に、荻窪に仮り住まいしている波多野完治を訪ね、そこで彼と一高東大と同級の小林秀雄に偶然出会ったと記している。「波多野の家へ行く。屋根裏の部屋なり。暫くして、小林という彼の友人来る。頭髪伸びて、脂気なく乱れたる、細面の更けたる青年なり。始めのうちは、深刻ぶるような男かと思いたるが、話すうちに、その疑い晴れる。3人にて月夜の路を行く。光やわらかく、小路の片側の芝よかりき。マントを着、古ぼけた黒きソフト髪にのせて、ほのかなる月光の下に立てる彼の姿、いとさみしげなり。電車2台やり過ごし、7時40分に乗る。乗る前、思い切って名刺を出す。快く受けて、彼も呉れる。小林秀雄といふ。もと芝白金に住めりとて、その頃の名刺なり。
車中、「寂しそうだね」と遠慮がちに言えば、「僕のペシミズムは死ぬまで続きそうだよ」と静かに答へる。
「遊びに来ないか」と彼は言ふ。高円寺駅にて別る。友一人得たるか?」と稚拙な日記が残っている。
永井 龍男 (ながい たつお) | |
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1955年 | |
誕生 | 1904年5月20日 東京市神田区猿楽町 |
死没 | 1990年10月12日(86歳没) 神奈川県横浜市栄区桂町 |
墓地 | 済海寺 |
職業 | 小説家、随筆家、編集者 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1920年 - 1990年 |
ジャンル | 小説、随筆、俳句 |
代表作 | 『朝霧』(1949年) 『一個 その他』(1965年) 『青梅雨 その他』(1966年) 『石版東京図絵』(1967年) 『わが切抜帖より』(1968年) 『コチャバンバ行き』(1972年) |
主な受賞歴 | 横光利一賞(1949年) 野間文芸賞(1965年) 日本芸術院賞(1966年) 読売文学賞(1969年・1973年) 菊池寛賞(1972年) 文化功労者(1973年) 川端康成文学賞(1975年) 文化勲章(1981年) |
デビュー作 | 『活版屋の話』(1920年) |
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永井 龍男(ながい たつお、1904年(明治37年)5月20日 - 1990年(平成2年)10月12日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 俳名、東門居。
懸賞小説に応募した『活版屋の話』(1920年)、『黒い御飯』(1923年)などで菊池寛に推賞される。人情の機微を精緻に描写する短編小説作家として活躍。作品に『朝霧』(1949年)、『風ふたたび』(1951年)など。