掲載時肩書 | 漫画家 |
---|---|
掲載期間 | 2003/08/01〜2003/08/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1922/03/08 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 81 歳 |
最終学歴 | 武蔵野美術大学 |
学歴その他 | 精華美術 |
入社 | 石版印刷 |
配偶者 | 見合(鳥取安来)娘 |
主な仕事 | 版画社、新聞配達、ラバウル、左腕喪失、闇屋、輪タク、水木荘、紙芝居、鬼太郎、貸本漫画、劇画記念館、 |
恩師・恩人 | 砂原勝巳軍医、鈴木勝丸 |
人脈 | 加太こうじ、長井勝一(ガロ)、白土三平(カムイ伝)、手塚治虫(ライバル視)、横山光輝 |
備考 | 世界中に妖怪はいる |
1922年〈大正11年〉3月8日 – 2015年〈平成27年〉11月30日)は大阪生まれ。漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家デビュー。代表作となる『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より6度テレビアニメ化されている。妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議員などを歴任。
1.妖怪の語り部
私の家でお手伝いをしていた景山ふさというおばあさんがいて、私たちは「のんのんばぁ」と呼んでいた。鳥取県あたりでは神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていたからで、あの世や妖怪の語り部のような人だった。私の生涯を決めた人でもある。子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をする。海に行けば海の妖怪、お盆になれば行事の由来といった具合に、話は多彩で不思議に満ちていた。
連れ合いは「拝み手」と呼ぶ祈祷師で、のんのんばぁは助手だった。夫が亡くなったが、拝み手になる才覚はなく、賄いや掃除の手伝いをして暮らしていた。体系的な知識などない。でも、仏教に熱心に帰依していて、来世を信じていた。脅かそうとか、面白がらせようとかいう魂胆はなく、話は淡々としているが、私は驚嘆して信じ込んだ。風呂の掃除を怠ると「あかなめ」が来て、風呂の垢をなめる。誰もいないはずの夜道で後の方で足音がする。「べとべとさん」だ。振り向かずに「先へお越し」というと通り過ぎていく・・・。世の中には目に見えない者たちが蠢(うごめ)いていると思うと、心がざわざわと波だった。
2.ラバウルは自然豊かな天国
地獄の戦場から九死に一生を得て終戦を迎えたが、左腕を失っていた。野戦病院で日本の敗戦を知った。この病院の少し離れた場所にトライ族という原住民の集落があり、彼らは戦争などどこ吹く風といった風情でのんびり暮らしていて、純朴で温厚だった。地面に棒きれで絵を描くと、ちびっ子も若者も、長老だって目をキラキラ輝かせる。兵舎を抜け出して訪ねては歓待された。軍紀違反だが雑務を逃れ走っていった。
銃声がやみ、空襲がなくなると、ラバウルは天国だ。トライ族の集落に入り浸っても誰も怒らず、ビンタも飛んでこない。トライ族の人たちとはますます仲良くなり、友人を通り越して同胞になっていた。彼らは必要なもの以外は作らず、取らず、1日に3時間ぐらいしか働かない。後は鳥のさえずりや虫たちのオーケストラに耳を傾け、のんびりとおしゃべりする。夕闇が迫ると、目に見えない、この世のものではない者たちの時間だ。寝転んで満天の星を眺め、何もしないのだ。
漆黒の闇の中で、美しい星々を見ていると、私が九死に一生を得たのは、大自然にいる、何か巨大なものに守られたからだと思った。それは神かもしれないし、精霊だったかもしれない。
3.39歳、見合いから10日で結婚
見合いからわずか10日後の1961年(昭和36)1月30日に米子で式を挙げ、そのまま東京に連れ帰った。私は40歳が目前で、おっとりの妻は29歳だった。原稿の締め切りが迫り、仕上げないと干される。新婚旅行なんか頭に浮かばなかった。調布の家は畑の中にポツンと建っていた。夜になると辺りは真っ暗で、妖怪が出そうな雰囲気だ。僕は新妻を振り向く暇もない。一心不乱にGペンと呼ぶ硬い筆先のペンでカリカリッ、カリカリッと猛烈に描き進めた。もの凄い迫力に妻は仰天したようだ。
金がないのにも驚いていた。「こんなに忙しいのに、なんでこんなに貧乏なんですか?」と聞いた。妻は野の花を摘み、牛乳瓶に挿して机に飾った。電気蓄音機は質屋に入り、レコ-ドも売り払っていた。クラシックのソノシートをおもちゃのような電蓄で聞きながら、Gペンを走らせた。
わき目も振らず描きまくる僕を眺めて、妻がくすくす笑う。楽しい場面ではニコニコして筆を動かし、しかめっ面をしたり、泣きそうな顔になったりして描いていることもあるという。「まるで百面相ね」と面白がり、二人して笑った。貧しかったが、悪くない気分だった。
4.手塚治虫氏を目指して
2003年6月に第7回手塚治虫文化賞特別賞をいただいた。年の功でたくさんの賞をもらったが、今回はとりわけ感激した。私が売れ出してからも、手塚さんははじめのうちはあまり意識していなかっただろう。私は「宿命のライバルだ」と思ってやってきた。若いときから漫画界に君臨してきた彼に対して屈折した思いもあった。だからこそ余計にうれしかった。
手塚さんがコンクリート舗装の大きな道を闊歩してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路を躓(つまず)きながら歩いてきたようなものだ。ヤキモチのような気持ちもあって、悪く言うこともあった。大きな声では言えないので、家族やスタッフなど身内につぶやいていた。
敗戦の翌年、私が何とか生き延びて帰還船を待っていたころ、6つ下で学生だった手塚さんはもう新聞に4コマ漫画を描いていた。間もなく「新宝島」でデビュー。子供たちを熱狂させた。私は手塚さんの漫画を読んで、「アメリカのディズニー漫画の日本支店だな」と感じた。絵の清新さと筋の運び方のスピードには敬服した。即ち、なかなか上手だった。ユーモア感覚も上質、登場人物の造形は鮮やかで、年を経て一段と進歩し、変化して、貸本漫画たちにも大きな影響を与えた。
手塚さんが住んでいて、彼を敬愛する若い漫画たちが集まった東京・椎名町のトキワ荘の面々は超多忙で、たまに会うと、すぐ徹夜自慢みたいな話しになって、眠りに弱い私はいつも驚いていた。一番であった手塚さんは大変だったろうなぁ、と思う。命を削って戦ってきたのだ。自分の作品に自信を持ち、漫画が大好きでないとできないことである。89年に手塚さんは亡くなった。まだ60歳の死は私にも衝撃だった。
氏は、’15年11月30日に93歳で亡くなった。「履歴書」に登場したのは81歳の2003年8月で、漫画家は「フクちゃん」の横山隆一氏(1971.12)「のらくろ」の田河水泡氏(1988.10)に次いで3番目であった。
武蔵野美術学校(現武蔵野美術大)を中退。太平洋戦争に召集され、ラバウル戦線で左腕を失う。生き延びて復員した後は、闇屋、配給の魚売り、輪タク(リヤカー付自転車のタクシー)の貸出しなどの職を転々とする。紙芝居の仕事に巡り合ってせっせと子供向けの絵を描き、廃れると貸本漫画に精を出した。
貸本漫画「ロケットマン」でデビューするが生活は苦しかった。しかし、週刊少年マガジンで「墓場の鬼太郎」(アニメ化に伴い「ゲゲゲの鬼太郎」にタイトル変更)を連載し、一躍人気漫画家になった。妖怪退治をする正義の味方鬼太郎は妖怪ブームを巻き起こし、その後も何度かアニメ化された。氏はラバウルの戦場で「九死に一生を得たのは、大自然にいる、何か巨大なものに守られたからだと思った。それは神かもしれないし、精霊だったかもしれない」と述懐しており、霊的なものを強く感じていた。
1971年(昭和46年:49歳)にラバウル(パプアニューギニア・ニューブリテン島)に妻への慰労を兼ねて世界妖怪行脚の旅行に出かけた。仕事と暮らしに追われ、世間知も邪魔をして、子供のころの純粋な感受性が鈍っていたので妖怪感度の自信も失いかけていた。しかし「現地に行き、妖怪行脚を重ねるうち、妖怪たちはこの世から姿を消したのではなく、姿は見えないが、五感に響いてくる経験を何度もした。そのたび驚き、感動し、うれしくなって、自信が蘇ってきた」。こうして妖怪を収集して「妖怪千体説」を発表する。「妖怪は世界中に居て、その種類は無限のようにある」と言っている。
水木妖怪博士は、日本の民族社会で伝えられていた妖怪や江戸の浮世絵師たちが描いた妖怪に素材を求めながら、世界各地で集めた妖怪イメージを自らの作品に溶け込ましたものと思われる。今頃は冥途で仲良しの妖怪と再会を喜んでいるかもしれない.
みずき しげる 水木 しげる | |
---|---|
文化功労者選出に際して 公表された肖像写真 | |
本名 | 武良 茂(むら しげる) |
生誕 | 1922年3月8日 日本・大阪府西成郡粉浜村(現・大阪市住吉区東粉浜) |
死没 | 2015年11月30日(93歳没) 日本・東京都三鷹市 |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家 |
称号 | 紫綬褒章 旭日小綬章 文化功労者 東京都名誉都民 調布市名誉市民 鳥取県名誉県民 |
活動期間 | 1958年 - 2015年 |
ジャンル | 妖怪漫画・戦争漫画 |
代表作 | 『ゲゲゲの鬼太郎』 『河童の三平』 『悪魔くん』 『総員玉砕せよ!』 『のんのんばあとオレ』 『日本妖怪大全』 |
受賞 | |
公式サイト | げげげ通信 |
水木 しげる(みずき しげる 、本名:武良 茂〈むら しげる〉、1922年〈大正11年〉3月8日 - 2015年〈平成27年〉11月30日[1])は、日本の漫画家、妖怪研究家[2]、紙芝居作家。
大阪府大阪市住吉区出生[3][4]、鳥取県境港市入船町育ち[3][5]。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から名付けた[6]。1958年に漫画家デビュー。代表作となる『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。