掲載時肩書 | カシオ相談役 |
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掲載期間 | 1991/08/01〜1991/08/31 |
出身地 | 高知県 |
生年月日 | 1917/11/26 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早稲田工手 |
入社 | 榎本製作所 |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | 独立25歳、樫尾製作所→カシオ計算機、リレー式計算機、電卓、カシオトロン、カシオトーン、カシオ科学振興財団 |
恩師・恩人 | 榎本博史 |
人脈 | 加太こうじ(黄金バット),久田忠守(内田洋行:総代理店)、米山高範(コニカ) |
備考 | 兄弟結束:忠夫(財務・技術)、俊雄(開発)、和雄(営業)、幸雄(生産) |
1917年(大正6年)11月26日 – 1993年(平成5年)3月4日)は高知県生まれ。実業家。カシオ計算機の創業者である。カシオ計算機は電子式計算機の導入には後れを取ったが巻き返し、1960年代後半には日本国外にも販路を広げた。1972年、世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」を当時としては革命的な一万円台で発売し大ヒットを記録。電卓メーカーとしての地位を不動のものにした。カシオ計算機はその後もG-SHOCK、カシオトーン、カシオトロン、ペラなどの製品を次々と世に送り出した。長兄の忠雄を含めた4人の兄弟でカシオ計算機を創業。他の3人は俊雄(元名誉会長)・和雄(元会長)・幸雄(特別顧問)である。2015年よりカシオ社長を務める樫尾和宏は和雄の子息で、忠雄の甥に当たる。
1.リレー計算機の発表
昭和32年(1957)6月1日、リレー計算機を開発、製造する会社としてカシオ計算機を設立した。資本金は50万円。社長は父、私は父を補佐する専務となった。5か月後の11月、私たちが手塩にかけたリレー計算機の製品発表会が、東京・大手町のサンケイ会館で行われた。電動計算機を扱っている外国人ディーラー多数を集め、事務機器業界のたくさんの人が集まった。以前、私たちの開発したソレノイド計算機を見て、いろいろ評価してくれた文祥堂の人の顔も見えた。
商品名は「カシオ14-A型」だった。「14」は14桁まで計算できるという意味、Aは1号機を表していた。使っているリレーの数は342個、計算機はタタタタタッと軽快な音をたてて、動いた。滞りなく、滑らかに答えが出てくる。それを見て、本来商売敵であるはずの外国人が「ワンダフル」「ワンダフル」と声をあげた。
値段は1台48万円に決めていた。輸入ものの電動計算機より若干高いという値段設定だった。本当は発表会までに10台の製品見本を作る予定だった。しかし、リレーなどは自前で作っていたし、従業員も素人だったから、結局6台しか作れなかった。しかし、この製品は昭和32年度の科学技術庁長官賞を受賞した。
2.多角化は同じ“根”の電子技術で
昭和49年、私たちが電卓の次に手掛けた商品は、時計だった。時計は戦後になって、服部時計店(現・服部セイコー)を頂点とする業界構造が出来上がっていた。しかし40年代半ば、大きな技術革新が訪れた。電子化の波である。クオーツ化・デジタル化によって、精密機械から電子へとその基盤となる技術が変わった。エレクトロニクス産業からの参入が可能になったのである。その年の11月に「カシオトロン」という商品名で発売した。時計のときは、電卓ほどではなかったが、やはり数年激しい競争が続いただろうか。しかし、デジタルに関して言えば、得意の技術が生かせた結果、ほどなくトップにたてた。
電卓、時計に続いて多角化を目指す経営の柱になったのは楽器であった。計算機の世界から見ると、随分遠い所に来てしまったような気がするが、決してそうではない。エレクトロニクスという“根”で繋がっている。
私たちは、需要があるから開発するというのではなく、新しい技術があれば市場が作り出せると考える。俊雄は「必要は発明の母」ならぬ「発明は必要の母」と、よく言っていた。電卓、時計はエレクトロニクス革命によって機能や精度が上がるのに反比例して値段が下がり、誰もがわずかのお金で買えるようになった。楽器も、エレクトロニクス技術を応用すれば、誰もが簡単に演奏できるようになるはずだ。
こうして第一弾の製品、電子キーボード「カシオトーン201」が昭和55年(1980)1月に発売になった。一台の楽器で49種類もの音が出せる世界で初めてのものだった。楽器は現在、電卓や時計と並ぶ事業部門に成長した。
さらに液晶テレビ、ページプリンターやOA商品をはじめとする情報機器分野など得意のエレクトロニクス技術をベースにして着々といま育っている。