掲載時肩書 | 衆議院議員 |
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掲載期間 | 1970/06/11〜1970/07/08 |
出身地 | 岩手県 |
生年月日 | 1898/01/16 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 二高 |
入社 | 農商務省 |
配偶者 | 銀行重役娘 |
主な仕事 | 愛知、商工省、欧米視察、満州(実態調査)、次官、衆議員、60自衛隊出動止め、日韓条約 |
恩師・恩人 | 岸信介(3年上) |
人脈 | 吉野信次、安倍孝良老人、鮎川義介、水野成夫、南喜一、正力松太郎、藤原銀次郎、小林一三 |
備考 | 後藤新平/叔父(新平姉に養子)、悦三郎:高野長英の幼名 |
1898年(明治31年)1月16日 – 1979年(昭和54年)9月30日)は岩手県生まれ。官僚、政治家。岸信介の腹心として満州国の運営に関わり、また商工次官として統制経済を推進、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(21代・30代)、外務大臣(94-95代)、自由民主党において政調会長、総務会長、副総裁を歴任した。田中角栄の後継の総裁として三木武夫を指名した「椎名裁定」は世人を驚かせた。椎名素夫は次男、血縁のない叔父に東京市長、内務大臣、帝都復興院総裁などを歴任した後藤新平がいる。
1.後藤新平と私
私に椎名家への養子の話が出たのは、二高卒業間際のことである。椎名の家は、後藤新平の姉が嫁した先だった。後藤新平のことは私の小さい時から「おじ」と呼んでいたが、じつはわが家の後藤家の分家の人である。この養子の話がまとまって、正式に私の叔父になったわけである。
新平の「お姉さまは優れた人だ」というし、私も三男坊でとりわけの束縛もないので、「行ってもいい」という気になった。ただし条件がある、と当時としてはちょっとませたことを言った。「職業と配偶者については絶対に自分で決める。押し付けられるようなことがあるのでは困る」と。この条件はむしろ先方が喜んでくれた。
2.満州開発の手伝い
昭和8年(1933)、10か月ほどの欧州、米国視察旅行を終えて帰国すると、商工省でも満州の経済問題が大きくクローズアップされていた。満州赴任の正式のすすめは、岸信介氏からであった。満州には、満州国実業部計画科長として赴任した。実業部長は日本では通産大臣にあたり、日本人部下が10人いた。
とりあえず3年計画で満州全体を調査する計画を立てた。その範囲は、農業の実態調査と開拓、林業の現状と開発、地下資源の開発、水力電源の調査などが主な部門であった。調査活動は匪賊等が出て困難であったが、楽しくかつ実り多い仕事だった。最も広範囲にわたったのは水田を中心とした農地開拓調査で、後にこれに基づいて北満一帯に多数の開拓者が入植している。また後まで大きな遺産は水源調査で、これが鴨緑江の60万キロの水豊ダム、第二松花江の48万キロの豊門ダム、その他のダムにつながった。
3.正力松太郎氏の後藤新平叔父への恩返し
正力さんから「折り入って話したいことがある」と言ってきた。正力さんは警視庁の官房主事、次いで警務部長を務めていたが、当時の内務大臣は後藤新平叔父であった。その関係で新平叔父は「どんな深夜でも正力が来たら起こせ」と信頼をおいていた。正力さんは私の顔を見るなり、「たっての、頼みがある」という。
「私の建てたい建物があるが、制限があり引っかかりそうだ。後藤新平伯の故郷水沢市に公会堂を建てたい。後藤伯には口では尽くせぬほどの恩義を受けている。私の仕事も一応軌道に乗ってきた今、是非記念公会堂を建てて恩義に報いたい」という。しかし物資不足の当時、公会堂や旅館は許されないものだ。
正力さんの恩義とは、読売新聞社が財政的に行き詰ったとき、当時の10万円(現在の1億円以上)は必要で、伊豆長岡に静養中の新平叔父に相談に行くと、「協力しよう。ただし2つの条件がある」と言った。
条件とは、話がうるさくなるといけないから後藤新平から金が出たとは言うな、また新聞事業は一種の水商売だから、ダメと思ったら金に未練を残さずドブに捨てたつもりで帰ってこい、ということだった。この言葉に、正力さんはすっかり敬服してしまった。
10万円は、商工会議所会頭などをやった藤田謙一氏の手から受け取った。だが正力さんはこの金が新平叔父から出たのかどうか半信半疑だった。が実は、この金は新平叔父が自分の屋敷を担保にして銀行から借り入れたものだった。正力さんはこの事実を知って愕然とした。どうやってこの恩義に報いようか、と。
私は初めて聞く話だった。しかし、「公会堂はダメである」といって、ひらめいたのが「公民館」という名である。全国に今たくさんある公民館の第一号は、こうして水沢市に建てられたのである。
椎名 悦三郎 しいな えつさぶろう | |
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生年月日 | 1898年1月16日[1] |
出生地 | 日本 岩手県胆沢郡水沢町 |
没年月日 | 1979年9月30日(81歳没)[1] |
死没地 | 日本 東京都新宿区信濃町[2] |
出身校 | 東京帝国大学(現・東京大学) |
前職 | 農商務省官僚 商工省官僚 満洲国実業部官僚 軍需省官僚 東北毛織株式会社取締役社長 |
所属政党 | (日本民主党→) 自由民主党(岸派→椎名派) |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 衆議院永年在職議員 法学士 |
親族 | 次男・椎名素夫 叔父・後藤新平 |
第19・28代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第2次池田内閣 第2次佐藤第1次改造内閣 |
在任期間 | 1960年12月8日 - 1961年7月18日 1967年11月25日 - 1968年11月30日 |
第87-88代 外務大臣 | |
内閣 | 第3次池田改造内閣 第1次佐藤内閣 第1次佐藤第1次改造内閣 第1次佐藤第2次改造内閣 |
在任期間 | 1964年7月18日 - 1966年12月3日 |
第18代 内閣官房長官 | |
内閣 | 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1959年6月18日 - 1960年7月19日 |
選挙区 | 岩手県第2区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1955年2月28日 - 1979年9月7日 |
その他の職歴 | |
自由民主党副総裁 (総裁: 田中角栄、三木武夫) (1972年8月 - 1976年12月) | |
第13代 自由民主党総務会長 (総裁:佐藤栄作) (1966年 - 1967年) | |
第7代 自由民主党政務調査会長 (総裁: 池田勇人) (1960年 - 1960年) |
椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年(明治31年)1月16日 - 1979年(昭和54年)9月30日)は、日本の官僚、政治家。岸信介の腹心[3] として満洲国の運営に関わり、また商工次官として統制経済を推進、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(19代・28代)、外務大臣(94-95代)、自由民主党において政調会長、総務会長、副総裁を歴任した。田中角栄の後継の総裁として三木武夫を指名した「椎名裁定」を下した人物として知られている。椎名素夫は次男、血縁のない叔父に後藤新平がいる[注 1]。
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