梅原猛 うめはら たけし

学術

掲載時肩書哲学者
掲載期間2001/05/01〜2001/05/31
出身地宮城県
生年月日1925/03/20
掲載回数30 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
京都大学
学歴その他八高
入社龍谷大講師
配偶者見合一目惚れ
主な仕事ハイデッガー、二―チエ、「笑いの哲学」「地獄の思想」日本国際文化センター、ペンクラブ 会長、スーパー歌舞伎、アイヌ縄文文化、ものづくり大学
恩師・恩人山内得立 教授
人脈川端康成、西田幾多郎心酔、桑原武夫、河合隼雄、梅棹忠夫、稲盛和夫
備考父トヨタ 研究所長
論評

1925年3月20日 – 2019年1月12日)は宮城県生まれ。哲学者である。日本仏教を中心に置いて日本人の精神性を研究する。西洋哲学の研究から哲学者として出発したが、西田幾多郎を乗り越えるという自身の目標のもと、基本的に西洋文明(すなわちヘレニズムとヘブライズム)の中に作られてきた西洋哲学、進歩主義に対しては批判的な姿勢をとる。その根幹は、西洋哲学に深く根付いている人間中心主義への批判である。西洋哲学者が多い日本の哲学界の中で、異色の存在である。

1.哲学(ニヒリズム)からの脱却結婚
私は昭和26年(1951)1月10日、25歳でふさと見合い結婚した。それは多少功利的な結婚であった。もちろんその結婚によって出世が約束されるとか、金持ちになれるとかいう意味ではない。私は結婚によって、大学時代以来ずっと私を悩ませたニヒリズムから脱却しようとしたからである。ニヒリズムの教祖といえばキルケゴールとニーチェであるが、彼らはいずれも独身であった。そしてニヒリズムの作家、太宰治と坂口安吾は、結婚こそしていたが、家庭の幸福を求めるのは恥だとばかり家庭を壊し、自らを破滅させた。私は彼らのようになりたくなかったので結婚したのである。
 私は自己救済のために、何も語らずに一人の女性を利用することに少なからず後ろめたさを感じた。結婚当初、自分自身を良家のうぶな子女を盗んできた盗人のように思ったものである。

2.大学移転の反対急先鋒に
京都市立芸術大学に就職した昭和48年(1973)、移転問題が持ち上がった。その移転地が果たして適当であるかどうかを調査する委員会が設けられ、その長に私が選ばれた。そして何度も移転候補地を視察したが、とても大学の建設地として適当だとは思えなかった。
 京都市立芸大は東の東京芸術大学に対抗する西の芸術大学の雄であり、そこから日本の美術界を背負う芸術家がたくさん出ている。それなのにこの大学がこんなひどい土地なのは許せないと思った。私はいつの間にか辻晉堂氏らと移転反対運動の急先鋒になった。
 私はこのとき、生まれて初めて自分を実践運動のリーダーとして意識した。自分がリーダーであらねばならないとすれば、わがままな一匹狼であった今までの自分の生き方を反省しなければならない。集団を率いるにはやはり熱意、誠実さ、忍耐、思いやりなどの徳が必要である。その徳のいくつかを私は欠いていたが、この移転問題の闘いの中で徐々に自己の人格を改造していった。

3.スーパー歌舞伎の内幕
市川猿之助(現・猿翁)氏は好学の士で、「地獄の思想」を読んで、著者に会いたいと私を訪ねてきた。私は猿之助氏と一夕語り、氏に私と同じ血が流れていると感じた。それから毎年、猿之助の芝居を観たが、数年たって、私は猿之助氏に、「古典歌舞伎は良いが、現代歌舞伎はつまらない。その多くは西洋の演劇の模倣である。新しい歌舞伎は、歌や踊りやアクションを最大限に生かしながら、ギリシャ悲劇やシエイクスピア劇のように首尾一貫した筋を持ち、誰にでも分かるように現代語でセリフを語るものでなければならない」といった。この言葉に猿之助氏はまったく同感した。それで私は、「誰かいい作者を探して、新しい歌舞伎を作ってくださいよ」と頼んだ。
 それから数年後、猿之助氏は、「いろいろ作者を探してみたが、どうしても見つかりません。いっそ先生、書いてくれませんか」と言った。私は京都芸大の学長をしているので書けないと逃げたが、学長を辞めた後にまた猿之助氏は、「学長をしているから書けないとおっしゃったじゃありませんか。辞められたのですから書いて下さいよ」と再び頼んだ。二度頼まれたからにはかかねばならないと私は思った。

追悼

氏は’19年1月12日、93歳で亡くなった。この「履歴書」に登場したのは01年5月で76歳の時でした。過去にこの「履歴書」に哲学者として登場したのは、中村元(インド哲学)、梅原猛木田元の3人である。氏は実母を生後1年半で失い、父方の伯父夫妻に引き取られ、伯父伯母を父母と思って育った。思春期に達したころ、本当の親でないことを知って悩み、精神形成に大きな影響を与えた。氏は数学が抜群にできたが、それ以外は及第点を採るのが精いっぱいだった。しかし中学時代には文学青年となり、川端康成などを読み漁ったが、八高時代には西田幾多郎、阿部次郎などの哲学書を乱読した。そうして、哲学に要求されるのは何よりも論理的思弁であるから、数学の得意な自分は適していると判断した。

氏の哲学は「笑いの哲学」を目指した。西欧の哲学はキリスト教的な実存主義の「希望」であるが、日本的風土に合わない。そこで道頓堀の角座や中座に連日通い「笑いの哲学」を提唱するとマスコミが取り上げてくれた。また、感情についても西洋の聖者・ソクラテスもイエス・キリストも殺された人であるのに対し、東洋の聖者・釈迦や孔子は自然死の人であることに着目し、西洋の文化を怒りの文化、東洋の文化を悲しみの文化としてとらえた。このような論文が世の評価を受けるようになったのだった。

氏は哲学者でありながら文学・歴史・宗教の分野で従来の学説に挑んだ著作が「梅原古代学」として親しまれた。伝統芸能への造詣も深く、歌舞伎俳優の三代目市川猿翁(現・猿翁)と組んでスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の原作を手掛けた。またこの後、狂言役者の二世茂山千之丞の依頼を受け、スーパー狂言も手掛け、能に関する著作を発表した。京都市立芸術大学長を9年間、国際日本文化研究センターの創設に努め、初代所長も務めた。

梅原 猛
現代評論社『現代の眼』第8巻第10号 (1967) より
生誕 (1925-03-20) 1925年3月20日
日本の旗 日本宮城県仙台市
死没 (2019-01-12) 2019年1月12日(93歳没)
京都府京都市
時代 20世紀の哲学、21世紀の哲学
地域 日本哲学
学派 京都学派、梅原日本学
研究分野 西洋哲学哲学史宗教哲学宗教学形而上学存在論世界観倫理学日本仏教神道古神道自然崇拝アニミズム歴史文明
主な概念 人間中心主義(西洋哲学)への問題提起、人類哲学、草木国土悉皆成仏、植物の意志、梅原日本学、怨霊史観(怨霊
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梅原 猛(うめはら たけし、1925年大正14年)3月20日 - 2019年平成31年)1月12日[1])は、日本の哲学者評論家位階従三位ものつくり大学総長(初代)、京都市立芸術大学名誉教授国際日本文化研究センター名誉教授。東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)。碧南市哲学たいけん村無我苑名誉村長京都市名誉市民

京都大学文学部哲学科卒業。立命館大学文学部哲学教授、京都市立芸術大学教授・学長の他、国際日本文化研究センター所長(初代)、社団法人日本ペンクラブ会長(第13代)などを歴任した。

西洋哲学から日本の芸能や文学の笑いまで幅広く研究し、日本文化の本質を探究する。大胆で独創的な梅原日本学を確立。『隠された十字架』(1972年)、『水底の歌』(1973年)、『人類哲学序説』(2013年)など著作多数。

  1. ^ 「誰もが認める破格の人」梅原猛氏お別れの会”. 産経ニュース (2019年4月21日). 2019年12月18日閲覧。
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