掲載時肩書 | 日本郵船会長 |
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掲載期間 | 2001/12/01〜2001/12/31 |
出身地 | 千葉県 |
生年月日 | 1928/11/01 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 静岡高 |
入社 | 日本郵船 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 貨物航空、客船、コンテナ化、タンカー売却、物流戦略(海運・航空)、飛鳥、クリスタル |
恩師・恩人 | 岡義武 |
人脈 | 来栖三郎、江上波夫、吉行淳之介、山路敬三、河村健太郎、草刈隆郎、菊地庄次郎 |
備考 | 趣味:自彊術 、ボート、絵画 |
1928年11月1日 – 2014年12月7日)は千葉県生まれ。1952年日本郵船に入社。1987年日本郵船副社長。1989年日本郵船社長。1995年日本郵船会長。2003年同社初の名誉会長に就任。2009年日本郵船相談役。日本郵船最高顧問。日本経済団体連合会名誉会長。
1.氷川丸の役割
氷川丸はシアトル、バンクーバー航路に就航し、1958年までに1万人の乗客を乗せ、フルブライト留学生も多く乗せた。しかし、船齢も30年に達し、ポスト氷川丸の検討をすることとなった。1964年の東京オリンピックに備えるため太平洋横断客船2隻の新造計画が政府筋から持ち上がり、59年には国会で超党派の「太平洋客船懇談会」ができた。私は浅尾新甫、有吉義弥元社長のお供でしばしば出席した。
当時のクルーズ人口は年間約40万人だったが、現在では米国を中心に約800万人に達する規模となっている。しかし私は捲土重来を期し、このクルーズ人口では暫く客船部門を停止し、氷川丸は一般の観覧用に横浜山下公園に係留し、新造計画も棚上げすることを菊地庄次郎元社長に進言した。「君もそう思うか」と言われて、決断された。その年には鉄鉱石専用第一船戸畑丸が竣工した。
2.多角化・・海上輸送から内陸輸送も
第一次オイルショックを契機とした我が社の積極的エネルギー戦略は25年を経て、順調に推移している。またエネルギーと並行して進められた不定期専用船への多角化戦略は高度経済成長の波に乗り、積極的に展開されてきた。その後市況の浮き沈みはあったが、1998年には昭和海運との合併が実現し、運営規模はエネルギー部門も含め関係グループ会社を合わせると、不定期専用船部門は650隻、3千4百万トンに達する世界的オペレーターとなった。
この間、わが国の自動車産業の躍進に応えて90隻の自動車専用船隊を擁するようになった。菊地庄次郎元社長の号令によって始まった第一次経営多角化路線は関係者の努力によって積極的に進められてきた。さらにコンテナ船の出現によって海運会社の輸送責任の範囲がこれまでの海上部門から内陸部に拡大するようになった。これがきっかけととなって我が社グループも港湾、内陸輸送、保管業務を含む物流サービスから在庫管理と物流加工を含めた「物流―ロジスティクス」の分野に進出、顧客の物流的経営課題であるサプライチェーンマネジメントの要請に、IT技術を駆使して応える体制を固めることとなった。
3.客船事業と裏方サービス
コアビジネスの一つに位置付けた客船事業は宮岡公夫元社長の決断もあり、1987年にプロジェクトチームが発足した。第一船のクリスタルハーモニーが就航するまで3年かかったが、この「松」計画の次に日本の乗客向けの「竹」計画、飛鳥が就航し、秘境、極地巡りの「梅」計画、探検船、フロンティアスプリットも就航した。「松」計画は米国に本拠を置き、米国の乗客を主体に豪華なサービスを提供し、例年米国の代表的旅行誌で最高位の評価を得ている。5年後に第二船、クリスタルシンフォニーが就航した。乗客数はクリスタルが30万人、飛鳥が20万人をそれぞれ超えた。「梅」計画はその後需要が十分に伸びず、撤退したが、松竹梅計画に付随する形で「小梅」ことレストラン船、レディクリスタルが東京・天王洲から運航している。
私は、客船経営はピラミッド型経営であると関係者を激励してきた。乗客に接するピラミッドの数%の最上部がいつもダイヤモンドのように輝いているためには、乗客の目につかぬ90数%の部分のインフラがしっかりしていなければならない。船底部のゴミ処理、エンジンルーム、倉庫、厨房などの運営が完璧でなければダイヤモンドサービスは無理である。
さらに40数か国の国籍を異にする乗務員管理の問題がある。クリスタルの場合、陸上150人のスタッフに対し、海上が2隻で1000人の乗務員がおり、この海陸の融和の問題もある。私も乗船した時は菜っ葉服を着て船底のゴミ処理から最上階へと上に向かって乗務員を激励していく。タキシードを着ての豪華パーティはその後である。また海陸融和のため、陸上トップにも必ず乗船してもらい、船上で船長以下幹部との率直な対話、討論を行ってきた。このような努力が華やかな客船経営には必要なのだ。
氏は’14年12月7日に86歳で亡くなった。氏の連載は2001年12月であったが、日本郵船からは菊地庄次郎(1984.6登場)に次いで2人目であった。
1.物流総合サービスの取り組み
彼は陸上のトラック業界が、荷役の大幅削減、ドア・ツー・ドアの輸送を画期的なものにしたコンテナ化を海運にも採り入れる企画を担当し、北米カリフォルニア航路を成功させた。また、第一次オイルショックを契機として経営の多角化が菊地庄次郎社長のもとで積極的に進められた。その時、コンテナ船の出現によって、海運会社の輸送責任の範囲が、これまでの海上部門から内陸部に拡大するようになった。そこで、港湾、内陸輸送、保管業務を含む物流サービスから在庫管理と物流加工を含めた「物流‐ロジスティクス」(一元管理)の分野に進出した。そして社長時代には円高が進む厳しい経営環境の中で、陸運などを一体で提供する総合物流サービスを強化し、経営を支える事業部門に育てあげた。
2.「就職協定の廃止」宣言
財界活動としては、労働問題を担当する経済団体「日経連」の8代目会長として、新卒学生の採用活動の時期を大学と企業とで取り決める「就職協定」が「守られていない」理由で廃止を宣言した。また、「日本船舶協会」の会長のとき、「海に感謝して、海の環境を守る日を祝日にしよう」と運動を広め、96年に「海の日」の制定に尽力した。