掲載時肩書 | 電力中央研究所理事長 |
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掲載期間 | 1964/01/01〜1964/01/31 |
出身地 | 長崎県壱岐 |
生年月日 | 1875/12/01 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 89 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶応 |
入社 | 日銀 |
配偶者 | 銀行支店長仲介(一子) |
主な仕事 | 丸三商会・福松商会(桃介の相棒)、福博電気軌道>西日本鉄道、九州電気鉄道、東邦電力、東京電力、産業計画会議 |
恩師・恩人 | 福沢諭吉 |
人脈 | 加藤武雄、小山完吾、高石直五郎(同期)、福沢桃介、小林一三、武藤山治、野村徳七、近衛文麿、麻生太吉、小林中、永野重雄 |
備考 | 茶道・茶人、福沢桃介と共同事業多し |
1875年(明治8年)12月1日 – 1971年(昭和46年)6月16日)は長崎県生まれ。明治末期から昭和にかけて長く日本の電力業界において活動した実業家である。石炭商などの事業を手掛けたのち明治末期から九州で電気事業の経営に関わり、1922年(大正11年)からは20年にわたり大手電力会社東邦電力を主宰した。太平洋戦争下では一旦実業界から退くも、戦後の占領下で電気事業再編成審議会会長として再起。電気事業再編成を主導して九電力体制への再編を推進し、その強硬な姿勢から「電力の鬼」の異名をとった。その後は電力中央研究所理事長に就任。また私設シンクタンク産業計画会議を主宰して日本の産業経済全体について政策提言を行い、政府の政策に大きな影響を与えた。大正時代に1期のみ衆議院議員を務めた経歴も持つ。美術品収集家、茶人としても知られ、「耳庵」(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人。中部電力第5代社長松永亀三郎は甥。福沢桃介とよく共同事業を行う。
1.恩師・福沢諭吉先生
私が21歳、福沢先生に親近したのはこの頃である。先生は、冬の寒い日でも、例の股引き姿で、朝の5時ごろから散歩に出られるのが日課で、三田から芝、時には日比谷までまわられたが、そのお供をして回るのである。その頃は元奥平藩邸であった三田の塾の寮にいたが、先生のうちの鶏を失敬し、鍋にして学生仲間でつつき、それがバレたとき、先生は犯人一同を招待してくださり鶏泥棒のことは一言もおっしゃらず一同かえって冷汗を流したこともあった。
時には先生のご家族と同じ馬車に乗って、芝居のお供をしたが、こんなときにはひどく得意に感じた。先生のご養子で、私の人生行路に大きな方向づけをした福沢桃介と仲良くなったのもこの散歩のお蔭である。桃介は私より8つ年上で、米国留学を終えて北海道炭鉱汽船に就職していたが、お供に交じっていた。
株についても先生に教えられたことがある。先生は自宅の廊下の柱に目盛表を作って、「きょうはいくらもうかった・・・」とつぶやいておられた。これは先生がある銘柄を選定し、ご自分の目算価格で相場をはる。変動があって、「買っておればもうけ、売ってあれば下がっておればもうけ」ということで、その表をかけておられたのだ。ところで、実際は一株も売買はやっておられない。経済の学者として、自分の見込みをそうやって試しているに過ぎなかった。以上のように会得して、私が株の投機を止めたのも、実は先生の”空もうけ“の意味を悟ったからである。
2.気宇壮大な産業計画会議の提唱
昭和31年(1956)、民間の各界から、造詣の深い人たちに集まってもらい、自由に総意を工夫に基づいて、将来の経済計画を立てようと産業計画会議を発足した。主なものは「エネルギー対策」「任意償却制」「東京―神戸間高速自動車道路」「国鉄の改革」「たばこ民営」「北海道の開発」「海運政策―海運業再建案」に「沼田ダムの建設」「東京湾埋め立て計画」等々である。
89歳の今、近く東京を中心とする水対策、海運政策、農業政策などについて、勧告する予定であるが、この機会に東京湾埋め立て計画を聞いてもらいたい。大磯の吉田茂さんが「30億ドルを借りて、借金額の博士になる」と、力を入れているのがこの計画で、当面、私もぜひ実現させたいと願っているものである。東京湾の三分の二、約2億坪を埋め立て、湾を横断する道路と防潮堤を造り、利根川の沼田に、約7億トンの水をためる多目的ダムを設け、ここから上水道、工業用水をとり、第二の東京都(千葉、神奈川含む)を建設しようという案で、公表してから既に、4,5年になるが、まだ着手の機運にいたらない。
3.年寄りの考えることは「ちいさい」
私どもの構想が少し大きく映るらしいが、決してそんなことはない。完成するのは15~20年のさきであろうが、その頃は、人口も増え、工場の規模も、船も、いまより大きくなっているのだから、大体マッチするのである。だから、これは未来図ではなく、今から着手しなければならない現在の問題なのである。年寄りの考えることは「ちいさい」。私ならこうやる、と言って買って出る青年が現れないものだろうか。
松永 安左エ門 | |
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松永安左エ門(1953年頃) | |
生誕 | 1875年(明治8年)12月1日 長崎県石田郡石田村(現・壱岐市) |
死没 | 1971年6月16日(95歳没) 東京都新宿区・慶應義塾大学病院 |
墓地 | 新座市の平林寺 |
出身校 | 慶應義塾(中退) |
職業 | 実業家 |
親 | 松永安左エ門(2代) |
栄誉 | 勲一等瑞宝章 |
松永 安左エ門 まつなが やすざえもん | |
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前職 | 実業家 |
所属政党 | 無所属 |
選挙区 | 福岡市選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1917年4月21日 - 1920年2月26日 |
松永 安左エ門(松永 安左衛門、旧字体:松󠄁永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、明治末期から昭和にかけて長く日本の電力業界において活動した実業家である。
長崎県壱岐島出身。「安左エ門」の名は父の名を襲名した(3代目安左エ門)もので、幼名は亀之助。石炭商などの事業を手掛けたのち明治末期から九州で電気事業の経営に関わり、1922年(大正11年)からは20年にわたり大手電力会社東邦電力を主宰した。太平洋戦争下では一旦実業界から退くも、戦後の占領下で電気事業再編成審議会会長として再起。電気事業再編成を主導して九電力体制への再編を推進し、その強硬な姿勢から「電力の鬼」の異名をとった。その後は電力中央研究所理事長に就任。また私設シンクタンク産業計画会議を主宰して日本の産業経済全体について政策提言を行い、政府の政策に大きな影響を与えた。
大正時代に1期のみ衆議院議員を務めた経歴も持つ。美術品収集家、茶人としても知られ、「耳庵」(じあん)の号を持つ近代小田原三茶人の一人でもある。中部電力第5代社長松永亀三郎は甥。