松尾静麿 まつお しずま

交通(陸海・海運)

掲載時肩書日本航空社長
掲載期間1961/06/16〜1961/07/08
出身地佐賀県武雄
生年月日1903/02/17
掲載回数23 回
執筆時年齢58 歳
最終学歴
九州大学
学歴その他佐賀高
入社東京瓦斯電気
配偶者友人妹
主な仕事航空局、伊丹飛行場、企画院、逓信省・郵政省(航空保安部)、八尾飛行場、日本整備航空会社、国際線航路
恩師・恩人GHQ:アーレン大佐(民間空港恩人)
人脈同県人(藤山雷太・市村清)、小倉正恒、三木武夫、藤山愛一郎、柳田誠二郎
備考代々庄屋、小学校歌作詞、趣味:キジ狩猟
論評

1903年2月17日 – 1972年12月31日)は佐賀県生まれ。東京瓦斯電気工業に入社し、航空エンジンの設計を担当、生涯を空一筋にかける道を歩み始めた。その後、逓信省に入省。逓信省航空局に入り、1930年(昭和5年)朝鮮総督府航空官をはじめに、蔚山飛行場長、大邱飛行場長、大阪飛行場長、航空局第二部補給課長、などを歴任。運輸省航空庁長官および日本航空社長・会長を務めた人物。連合国軍最高司令官総司令部によって航空事業が壊滅的な打撃を受けた中、民間航空の再建に取り組み、フラッグキャリアの日本航空の設立に実現したことから戦後日本航空業界の父と言われる。

1.キジ猟は楽し
昭和8年(1933)、満28歳で京城の総督府の検査官をしていると高等官になり、加藤清正の籠城で有名な蔚山(ウルサン)に赴任した。ここで狩猟の愉しさを味わった。狙う対象はキジとかもだが、特にキジをよく撃った。日曜日には家内と子供を連れ、家内は弁当、私は鉄砲を持って、よくピクニックを兼ねた猟に出かけたものである。
 猟で一番大事なのは一発目でそれに失敗すると犬にバカにされる。キジはソバ畑やアワ畑にエサを探しに来る。その所在は人間には分からないが、犬は嗅覚でちゃんと知っている。こっちは犬の後をつけ、射程距離を見計らって「よし!」というと、犬はキジを追い出す。パッと飛び立つ瞬間を狙うわけだが、この一発を誤ると、犬は焦って射程外にキジを追い出してしまう。それから、どうしても犬でないと困ることがもう一つある。羽に弾が当たると、キジはパタッと落ちてくるが、羽では死なない。足が強いからどんどん逃げ出して、穴なんかに隠れてしまう。そうなると、人間ではどうにもならないが、犬は簡単に捕えてくれる。また、川に落ちても泳いで行って咥えて来てくれる。そんな時はいじらしく、持参の弁当を分け合って食べたものだ。

2.日本航空会社の誕生
昭和24年(1949)、私が初代の航空保安庁長官になったとき、マッカーサー専用機の首席パイロットが会見を申し込んできたのでGHQを訪れると、機材その他は全部アメリカから持ってくるから、日本で定期航空を始めよう、ということだった。これで、講和条約を目前にして民間航空の権利を獲得する気運が出た。
 そうなると、航空会社設立の申請が殺到しだした。藤山愛一郎氏の出願を筆頭に、東急の鈴木幸七氏、尾崎行輝氏が操縦士仲間に呼びかけて楢崎渡氏と一緒になったものや、また阪急、南海、近鉄、日通、ツーリスト・ビューローなどが組んで村上義一氏を担いだものなど、申請合戦は誠に派手に展開された。
すったもんだの挙句、昭和26年、それらの合同体として日本航空株式会社が誕生し、会長に藤山愛一郎さん、社長に柳田誠二郎さん、そして専務に私という陣容で発足した。

3.機長の車待遇は重役並みに
日本航空に初めて日本人のパイロット・キャプテン(機長)ができたとき、彼を自動車で送り迎えするかどうかが重役会の議題になった。その時の大勢は、贅沢だからやめようということだったが、しかし私は、「彼らが職務につく時は、会社の膨大な財産を預かる責任者であるばかりでなく、乗客の尊い生命までを自分の判断だけで守らなければならない。そういう重大な職務につく者が、電車で汗まみれになって飛行場に着き、疲れた体と不愉快な気持ちで仕事に就くようではならない。だからキャプテンだけは重役と同様に、車で送り迎えするようにしてもらいたい」と強く主張してこれを通した。
 私は機長らに、機会あるごとに「家庭というものは、諸君にとって最も大事なところだ。朝出がけに奥さんと喧嘩して、むかむかした気持ちで貴重な人命や財産を預かる重大な職務に就いてもらうようでは困る。その意味で、キャプテンは常に健康に留意するとともに、品性を高めることに努力して欲しい。諸君は外国に行けば、民間の外交官である。責任は重い。そのためにも家庭第一主義をとってもらいたい」と言っている。

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