掲載時肩書 | 俳優 |
---|---|
掲載期間 | 1983/03/30〜1983/04/24 |
出身地 | 群馬県 |
生年月日 | 1907/09/17 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 明治大学 |
学歴その他 | |
入社 | プロレタリア 演劇研究所 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 新築地劇団、勘当受け、 新協劇団、映画出演、俳優座、テレビドラマ「水戸黄門」 |
恩師・恩人 | 保坂剣道先生、土方与志、山田耕筰 |
人脈 | 松木謙治郎(明治)、谷口千吉・宇野重吉 (後輩)、丸山定夫、山本安英、薄田研二、小沢栄太郎、志村喬、森繁久彌 |
備考 | 実家:酒造家 |
1907年9月17日 – 1994年9月8日)は群馬県生まれ。俳優、随筆家。新築地劇団を経て1944年(昭和19年)、小沢栄太郎、千田是也、青山杉作、東山千栄子らと共に俳優座を結成。同時に日本移動演劇連盟に加入し、芙蓉隊を組織して地方を巡演する。戦後、俳優座の中心として『検察官』『中橋公館』『赤い陣羽織』『夜の来訪者』などで主要な役を演じた。俳優座劇場設立にも尽力し、後に同劇場取締役を務めた。戦中からは映画にも出演し、個性的な名脇役として330本以上の作品に出演した。主な出演映画に『東京物語』『用心棒』『秋刀魚の味』『白い巨塔』など。テレビドラマ『水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。
1.新劇界の創成期
昭和5年(1930)ごろの新劇界はおおよそ次のような状況だった。
築地小劇場は大正13年(1924)に発足したが、創立同人の中心だった小山内薫氏が昭和3年(1928)の暮れに急死した。そして翌4年3月に、築地小劇場は分裂したのだ。丸山定男氏、薄田研二氏、山本安英さんら6人が脱退し、土方与志氏を擁して新築地劇団をつくった。また、友田恭助氏と田村秋子さんも、このとき退団している。
残留組には青山杉作氏、東山千栄子さん、滝沢修氏、杉村春子さんたちがいた。こちらは劇団築地小劇場を名乗って活動を始めるが、やがて解散し、その一部は劇団新東京など別の芸術派的な流れとなる。
これとは別に左翼劇場の演劇研究会があり、村山知義氏、杉本良吉氏、佐々木孝丸氏らが中心で、僕はここの杉本良吉氏(岡田嘉子さんとソ連に越境)が試験官でプロレタリア演劇研究所に入所が許された。
2.谷口千吉君と宇野重吉君の思い出
プロレタリア演劇研究所の第一期生は、補欠入所の僕を含めて全部で70人ぐらいいたと思う。第一期生には、前進座の宮川雅青君(元文芸部長)がおり、第二期生では、民芸の大森義夫、劇作家の阿木翁助、映画監督になった谷口千吉君。そして第三期では民芸の宇野重吉君だけが残ったのではないか。
谷口君は、スポーツ万能の堂々たる二枚目だったから、舞台に出演させられるようになってからも、いい役をさらってしまう。後輩のクセに生意気だ、殴ってしまえと、一期生が押しかけたら、彼はボクシングのマネをして、強そうだったので、みんなすごすご引き上げたこともあった。
血気盛んだった宇野君は、議論となる相手が、たとえ先輩であろうと遠慮会釈なく、一歩も引かなかった。
3.スランプ(丸山定男先輩に相談)
昭和9年の新築地劇団にとって一番苦しい時期であった。僕は俳優としての自分の資質に対して疑問を抱き始めていた。どんな芝居に出ていても、うまくいかないのである。まあまあの出来だとか、あれで一応いいだろうといった、ある程度の満足感が、まるでないのだ。何をやっても自己嫌悪しか感じない。ことによると、道を誤ったのではないかと、嫌な気持ちで自分の才能というものを疑うようになった。
考えた末に、先輩の丸山定男氏に診断してもらおうと思った。そして、その診断の結果によっては、身の振り方を考えなければなるまいと、悲壮な気持ちになった。まだ春も浅いある日、僕は東京・砧村にあった丸山さんの家を訪問した。
いきなり用件を切り出すと、少し顔を赤らめて困った様子だった。そして僕の問いには答えず酒の用意をし、将棋盤を持ち出してきた。僕は気が進まないので、そのまま黙っていた。僕は何らかの答えが欲しかったのである。「僕は、俳優としての才能がないから、この仕事をやめようかと思う。いったい、僕には才能があるのだろうか。ないのうだろうか。その判定をしてもらいたいのだ。やめるとなると一生の問題だから、念には念を入れて、今日訪ねて来た。だからぜひ意見を聞かせてくれ」。
酒を酌みか交わしながら、この先輩は、ますます困った顔つきになっていった。そして泣きださんばかりの低い小さな声で「そんなことはわからないよ」と急いで言ってしまうと、ホッと溜息をついて、しきりに酒や食べ物を勧めた。やがて、いささか酔ったらしい先輩が、おどけて、カエルの鳴き真似をしてみせた。これが、またあまりにうまいので、思わず僕も笑ってしまった。結局、丸山さんは、よした方がいいとも、才能がないとも、僕の質問に対する答えになることは何を言わなかった。そして、帰りには駅まで送ってくれた。
4.俳優座旗揚げ
昭和18年(1943)ごろ、戦争はいよいよ激しくなっていた。男たちは、次々に応召していった。舞台も映画も娯楽ものは少なくなっていた。ちょうどそのころ、遠藤慎吾さん(演劇評論家)から、「青山杉作、千田是也、東山千栄子、田村秋子、岸輝子といった人たちと戯曲の朗読会をやっているのだが、それに参加する気はないか」と誘いを受けた。僕は小沢栄太郎君と二人で喜んで参加することにした。
世の中はまだお先真っ暗だったが、何度か会って朗読したり、これから先のことを話し合っているうちに、いっそ芝居をやろうか、ということになった。そして劇団をつくる話まで発展したのである。劇団の名前も、みんな俳優ばかりだから、「俳優座」がよかろうとなった。こうして昭和19年(1944)2月に、同人組織として劇団俳優座が誕生した。
劇団が発足して半年後の8月に、国民新劇場を改称させられていた築地小劇場で第1回の試演会を行った。観客はすべて招待にし、その費用は東山さんと僕とで500円ずつ出し合ったと思う。飯沢匡作「金切君の受難」、北条秀司作「波止場の風」、伊藤貞助作「日本の河童」といった題目で、たった二日間だったが、これが俳優座の旗揚げになった。
5.水戸黄門役(技巧に走らず単純に徹した)
昭和44年(1969)に始まったテレビドラマの「水戸黄門」は、14年間続いて、つい先だって僕の出演作として最終の381回録画が終わったところだ。このドラマがこれほど長く続き、あれほど人気があったのか、それは僕にもわからない。ただ僕としては、毎回気持ちを新たにして、一つひとつをおろそかにおろせずやってきた。
俳優として舞台に立ち続けながら、ある時期から僕は、計算や技巧で身を固めてうまく見せてやろうという気持ちがなくなってきた。長いこと芝居をやっていれば、演技表現のあの手この手といったものを、おのずから身につくものである。
僕は、美術や音楽が好きだ。優れた芸術作品というのは、高度な技術に裏打ちされながら、それを意識させない。ことに彫刻や陶器のいいものは、ほとんど作為を感じさせずに、素晴らしい手ごたえ、まさにそれがそこにあるという迫力のある存在感を備えているものだ。自分の身体を使って表現する俳優として、舞台の上での演技にも、そうした存在感なり、実在感がだせないだろうかと思うようになったのである。
とうの えいじろう 東野 英治郎 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
東野英治郎(1954年撮影) | |||||||||||
本名 | 東野 英治郎 | ||||||||||
別名義 | 本庄 克二 | ||||||||||
生年月日 | 1907年9月17日 | ||||||||||
没年月日 | 1994年9月8日(86歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・群馬県北甘楽郡富岡町七日市[1](現在の富岡市) | ||||||||||
死没地 | 日本・東京都世田谷区深沢 | ||||||||||
身長 | 159 cm | ||||||||||
職業 | 俳優、演出家、随筆家 | ||||||||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||||||||
活動期間 | 1934年 - 1994年 | ||||||||||
配偶者 | 東野英乃(前妻) 東野禮子(後妻) | ||||||||||
著名な家族 | 東野英心(長男) 服部マリ(長男の妻) 東野克(孫・長男の息子) | ||||||||||
事務所 | 俳優座 | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
映画 『東京物語』(1953年) 『秋刀魚の味』(1962年) テレビドラマ 『水戸黄門』 舞台 『夜の訪問者』 『千鳥』 | |||||||||||
|
東野 英治郎(とうの えいじろう[2]、1907年(明治40年)9月17日[2][3] - 1994年(平成6年)9月8日[4][3])は、日本の俳優、随筆家。戦前期の芸名は本庄 克二。身長159cm[5]。
新築地劇団を経て小沢栄太郎、千田是也らと俳優座を創設し、その中心として活躍。戦中からは映画にも出演し、個性的な名脇役として330本以上の作品に出演した。主な出演映画に『東京物語』『用心棒』『秋刀魚の味』『白い巨塔』など。テレビドラマ『水戸黄門』の初代黄門役でも知られる。著書に『私の俳優修業』など。長男は俳優の東野英心。