掲載時肩書 | 日本芸術院会員 |
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掲載期間 | 1965/05/31〜1965/06/19 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1908/07/08 |
掲載回数 | 20 回 |
執筆時年齢 | 57 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | |
入社 | |
配偶者 | 川崎小虎 教授・娘 |
主な仕事 | 帝展初出展で入選、独留学、「鹿野 山頂から山里」一体感、「残照」、風景画家、「道」 |
恩師・恩人 | 結城素明 |
人脈 | 橋本明治(同級)、中村勝五郎、芸術の原点「謙虚・ 誠実・清純」 |
備考 | 兄:関西学院大学 |
1908年(明治41年)7月8日 – 1999年(平成11年)5月6日)は神奈川県生まれ。画家、版画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人で、風景画の分野では国民的画家といわれる
1.残照(特選):戦後に母と弟を相次いで亡くした直後、自分の進路を見つけたシーン
昭和21年冬、千葉県の鹿野山へ登った。山頂の見晴らし台に立ったとき、おりから夕暮れ近い澄んだ大気の中に、いくえにもひだを見せて、遠くへ遠くへと山並みが重なっていた。褐色の山肌は夕映えに彩られて、淡紅色を帯びたり、紫がかった調子になったり、微妙な変化をあらわしていた。その上には雲一つない明るい夕空が、無限の広がりを見せている。
人影のない草原に腰を下ろして、刻々と変わっていく光と影の綾を、寒さも忘れて眺めていると、私の胸の中にはいろいろな思いがわき上がってきた。喜びと悲しみを経た果てに見出した心の安らぎとでもいうべきか、この眺めは対象としての現実の風景というより、私の心の姿をそのまま映し出しているように見えた。
私は翌年の2月にも春に写生に行って構図を考え、第3回日展の「残照」と題して出品した。この作品は特選となり、政府の買い上げとなった。
2.風景画家になる決意
「残照」以来、私は風景画家として立つ決意をした。私が画面に表すのは、絵具でも墨でもなく、紙や絹でもない。大気であり、山であり、林であり、水である。季節と天候によって千変万化し、緯度や高度や、その土地土地の条件によってその様相に無限の変化を持つ大自然である。戦前はあんなに旅をしたのに、私の眼は曇っていたのだろうか。観照の密度が足りなかったのか、あるいは表現の技術がまずかったのか。
しかし、これからは違うのだ。戦争のさ中に目が開けた時のように、私は平凡な自然の一角の中に、自分の心の微妙さを写し取ることができる。この道を進めばよいのだ。この一筋の道を。
3.地位を確立した「道」
これは青森県八戸の種差海岸にある牧場での取材である。十数年前、ここは灯台や放牧の馬の見える景色であった。しかしこの道一つに構図を絞り、他の一切の説明的な道具立てを省いた。道一本だけで構図することは不安であり、これで絵になるだろうかとも考えないではいられなかった。けれど、一筋の道の姿が私の心をとらえ、そこに私のすべての心情を細やかに注ぎ込むことができると思えてきた。
そこでもう一度、あの場所へ行きたくなり、十数年ぶりに八戸にたどり着いた。やはり来てよかった!
夏の朝早い空気の中に、静かに息づくような画面にしたいと思った。この作品の象徴する世界は、私にとって遍歴の果てであり、また、新しく始まる道でもあった。それは、絶望と希望を織り交ぜてはるかに続く一筋の道であった。
この年の日展に私ははじめて審査員となり、この「道」の出品画は多くの人々の共感を得て、画壇的にも世間的にも一躍、認められるようになった。私の芸術の立脚点は、謙虚と誠実と清純なところにあるべきと思っている。
4.苦労と毒:
苦労は薬というより毒であると思う。ただ、毒にあたっても、何とか耐え抜いた心身は免疫性ができるというか、苦労に対して強くなる。人生を甘く考えない態度を身につけることができていれば、順調な時にも心をひき締め、自己を見失わない結果になる。このとき、初めて若いときの苦労が薬になったといえるのだろう。
東山 魁夷 | |
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東山魁夷(1955年ごろ) | |
生誕 | 東山 新吉 1908年7月8日 日本・神奈川県横浜市 |
死没 | 1999年5月6日(90歳没) 日本・千葉県市川市 |
国籍 | 日本 |
教育 | 東京美術学校卒業 |
著名な実績 | 日本画家、著述家 |
受賞 | 日展特選 1947年 残照 日本芸術院賞 1956年 光昏 毎日芸術賞大賞 1969年 朝明けの潮 文化勲章・文化功労者(1969年) |
選出 | 日本芸術院 |
東山 魁夷(ひがしやま かいい、1908年〈明治41年〉7月8日 - 1999年〈平成11年〉5月6日)は、日本の画家、版画家、著述家。昭和を代表する日本画家の一人で、風景画の分野では国民的画家といわれる[1]。文化勲章受章者。千葉県市川市名誉市民[2]。本名は東山 新吉(ひがしやま しんきち)。