掲載時肩書 | 映画監督 |
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掲載期間 | 1987/09/01〜1987/09/30 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1912/12/05 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 工業高校 |
学歴その他 | |
入社 | 蒲田撮影所 |
配偶者 | 生涯独身 |
主な仕事 | 物語好き、カメラマン、シナリオ書き、監督、 「陸軍」、48本、テレビ、 |
恩師・恩人 | 島津保次郎監督、中村登 |
人脈 | 吉村公三郎、菊田一夫、杉村春子、東山千栄子、田中絹代、高峰秀子(の媒酌人)、田村秋子、久我美子 |
備考 | 父母:正直 ・実直を尊敬 |
1912年12月5日 – 1998年12月30日)は静岡生まれ。映画監督、脚本家。真面目で抒情的な作風で知られ、数多くの映画を制作した後、テレビ・ドラマにも進出した。弟は作曲家の木下忠司、妹は脚本家の楠田芳子。ジャンルは多様だが、大まかに分けると『二十四の瞳』などの抒情的なメロドラマ、『カルメン故郷に帰る』などの喜劇、『日本の悲劇』などの社会派の3つが挙げられる。時代背景を風刺した作品も多く、『カルメン純情す』では当時加熱していた再軍備運動が描かれており、『女の園』では封建制度を糾弾するテーマになっている。
1.両親から多大な恩愛
両親が私に注いでくれた愛情は、溺愛とも盲愛とも呼べるような性質のものだったかもしれない。しかし、そのおかげで私は、人間の愛というものが、どんなに深いものであり得るかということを知ることができた。人間が何かに対して注ぐ愛というものは、盲愛と呼べるくらいでなくては本当の愛とは言えないのではないかとさえ思うようになった。
そして、だれにとっても人生の意味というものは、自分を、どれほど深く激しく愛してくれた者があったかによって決まるのではないかとも考えるようになった。そういうことを、すべて私は、両親の恩愛によって学んだのである。いま私は74歳になっても、父や母の人格には劣るし、二人の生き方には頭が下がる。朝夕の、最初のお茶の一杯を二人の仏前に供えて、その度に同じ言葉の一言をいう。
2.師匠・島津保次郎監督
カメラの助手になって3年、島津先生から自分の助手にならないかというお誘いをいただいた。先生はおしゃれでダンディな人であった。あのころの映画界で外国製のスポーツカーのハンドルを握って乗り回したのは先生が最初ではないかと思う。先生はスターたち、特に女優さんたちにはやさしくて、おだてたり笑わせたりしてリラックスさせる名人だった。演技指導も自分でやって見せるのが実に上手で、俳優から伸び伸びとした動きを引き出すのがうまかった。
ところが、これが自分の助監督を相手だと、なんとも人使いの荒い監督だった。あの当時、撮影所のなかでは、「走っている助監督は島津組」といわれたくらいだ。用事はすべて走らなければ怒鳴られる。そのうえ、撮影中は雷が落ちる。「おい木下、ポケットに手を入れたら、マッチくらいつけろ」「おい、木下のバカ」など。
3.素晴らしき女優(杉村春子、田中絹代、高峰秀子)との出会いは監督冥利に
(1)杉村さんとは、「陸軍」に始まり戦後第1作の「大曾根家の朝」や「四谷怪談」などに出てもらったが、中でも「野菊の如き君なりき」(昭和30)では一緒に仕事をしていて楽しくて仕方がなかったことを覚えている。
「野菊・・」では、何といっても政夫の母に扮した杉村さんのうまさといったらなかった。民子が死んで、へばった感じで廊下を歩ていく後ろ姿なんかゾーッとするくらいの絶品で、こういう役者と一緒に仕事ができるのは監督にとっても、この上ないうれしさだった。
(2)田中さんは、「陸軍」のあと、戦後はまず「不死鳥」や「楢山節考」などにでてもらった。「陸軍」では、丹精をこめて育てた息子が出征していく。それを田中さんの母親が涙を流しながら、人混みの中を、どこまでも追っていくラストシーン。そして「楢山節考」(昭和33)は歯を全て抜いての演技は凄さの出たものだった。
(3)高峰さんとは、島津先生の「頬を寄すれば」だったが、この作品に子役で出ていたのが秀子さんである。それも撮影の初日、赤坂の霊南坂の教会の前で、その日の最初の撮影が秀子さんの泣き顔で、「なんてうまい子役だろう」と驚いたものだ。後にその教会で、秀子さんと松山善三君の結婚式の媒酌をやることになったのだから、運命とは不思議である。
「カルメン故郷に帰る」「カルメン純情す」「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」「笛吹川」など、次は彼女をどういう人間にしようかというところから自然にアイデアが生まれてきた作品がいくつもある。