朝海浩一郎 あさかい こういちろう

行政・司法

掲載時肩書元駐米大使
掲載期間1988/03/01〜1988/03/31
出身地栃木県
生年月日1906/03/15
掲載回数27 回
執筆時年齢82 歳
最終学歴
一橋大学
学歴その他英国エジンバラ大学
入社外務省
配偶者駐米大使(出渕勝次)娘
主な仕事捕虜の違い(日記、秘密)、GHQ内幕、 敗戦理由、憲法、キューバ事件、
恩師・恩人
人脈川又克二・中山素平(同期)、水上達三 (1上)、大来佐武郎、下田武三(米・下)、伊原隆、三浦文夫、西堀正弘、堀江薫雄
備考戦前・戦後 50年外交
論評

昭和4年外務省にはいり,エジンバラ大に留学。20年から終戦連絡中央事務局につとめ,GHQ幹部との接触でえた情報を「朝海レポート」にまとめた。イギリス公使,フィリピン大使などをへて,32年アメリカ大使。日米安保条約改定で対米折衝にあたった。

1.連合軍から見た日本軍の感想(終戦連絡事務局の総務課長として情報収集)
(1)日本軍の良い点:精神的に服従心と耐久力が、武器では水雷が特に優れていた。
(2)戦況が不利なると、万歳突撃を繰り返してくる。高度に機械化された軍隊には無意味だった。
(3)ある地点が守れなくなれば、他の地点に退却し、そこにいる味方と合流すれば勢力が強化されるが、日本はやらない。ある地点を死守して、そこで殲滅されてしまう。
(4)何といっても一番大きな点は、科学力、経済力の相違である。厚木飛行場―横浜間のパイプラインを1週間で整備できるし、大破された航空母艦でも寄港先ですぐに修復できる部品や技術を持っていた。

2.賠償問題(派遣特別大使と会談:終戦連絡事務局の総務課長として)
1946年11月にトルーマン大統領の特別使節として来日したポ-レー大使に、日光に赴く特別列車中で単独接触し、連合国の賠償方針が現金賠償や戦争被害補償という枠組ではなく、軍事産業や過剰生産設備の資本移転による戦後復興の枠組に基づくことを突き止める。その方針は
(1)日本には日本が侵略した周辺の国より高い生活水準は維持させない。
(2)金銭賠償とせず現物で賠償させる。
(3)賠償は第一次大戦後のドイツのように10年、20年かけての支払いでなく、一回で終わらす。
であった。この時に、「では、ソ連への賠償はどうなるのか」と聞いたところ、ポーレーは色をなして向き直り、「君、ソ連は満州(中国北部)で侵略行為をやっているし、最後の段階になって参戦してきたにすぎない。日本に対し賠償を請求する権利などない」と、きっぱりと言い放った。

3.日本領土が連合国から分断されなかった背景(終戦連絡事務局の総務課長として)
(1)ソ連は占領に参加の希望を表明してきたが、米国は同意しなかった。
(2)中国は本国の革命騒ぎで、日本占領などに兵力を割いていられなかった。
(3)英連邦の軍隊は日本の中国地方に来ていたが、日本側と接触する軍政部は、全部米国の責任だった。従って米国一国で日本を統治していたことは、占領の一番大きな功績だった。

4.米国とソ連との軍事衝突危機(キューバ事件:駐米大使として)
 ケネディ大統領には何回か会ったが、印象的な真っ青な目をしており、六尺豊かな偉丈夫といった感じだった。彼が米国人の信頼を博したのは、何といっても昭和37年のキューバ事件だった。
 ソ連はキューバにミサイルの基地をつくりだした。そこで米国はこの基地の建設を実力で阻止するという非常な決心を固めた。私たち同盟国の大使が国務省に招集され、「我々はソ連船舶を公海上で阻止する決意である。その結果、あるいは、両国間に戦争が起きるかもしれない。同盟国の大使もよくこの事情を了解して、それぞれの政府に十分説明していただきたい」と要請された。

5.日本軍の敗因
米軍の将校からの話では、日本の敗因は、何と言っても圧倒的な科学力と経済力の相違だという。そして米訓側から見た日本軍の姿を次のように話してくれた。
(1) まず日本軍の捕虜である。捕虜になると、これで一生を終わったと絶望してか、はなはだしいのは、昨日まで自分の所属していた部隊の攻撃に、重大な手掛かりを与える情報を提供してくれた。レイテ作戦の最中に、日本の捕虜が自軍の軍需品の集積場所位置を教えてくれたことがある。米軍はそれを爆撃して、多大の戦果をあげた。その他、米軍は捕虜を通じて、非常に重要な情報を手に入れることができた。
(2) 日本は機密保護ということを知らないのではないか。というのは、日本の兵隊は克明に日記をつける習慣がある。その日記を点検して、米軍は日本軍の動向に関して重要な情報を得た。米軍は兵隊に日記をつけさせない。そして自分たちが日本軍の捕虜の日記を点検していることを日本側に知られないよう、細心の注意を払った。

6.GHQの三人の立役者
占領期間中、日本を牛耳っていた連合国総司令部(GHQ)の内部構造はどうなっていたか。勿論、マッカーサー司令官が最高峰で、その下に参謀長がいるが、占領行政には関与していなかった。占領行政の立役者は3人いた。すなわちホイットニー准将、ウィロビー少将、マーカット少将である。
 コートニー・ホイットニー准将はマッカーサーに個人的な忠誠を誓っていた顧問弁護士で、フィリピンでマッカーサーと寝食を共にしていた。日本占領中は民生局(GS)の長だった。GSは公職追放も担当したし、日本国憲法をつくったセクションだ。マッカーサーが最も重要したのが彼だったが、気取り屋で、私などが会いに行っても、被占領国民に笑顔を見せてはならぬと思うのか、厳しい顔つきで冗談も言わなかった。
 ウィロビー少将はドイツのハイデルベルグで、フォン・ワイデンバッハ男爵と英国の女性との間で生まれた。18歳のとき米国に帰化した。GHQの参謀部はG1(企画、人事、庶務)、G2(情報、保安警察)、G3(作戦、復員)、G4(補給、予算)の4つに分かれていた。彼はG2のチーフであった。彼もマッカーサーの側近で、どちらかというと貴族趣味の人だった。吉田首相は、この人と連絡をよく取っていた。
 ウイリアム・マーカット少将は、ESS(経済科学局)の局長で日本の経済問題を扱っていた。赤ら顔で人の好い、新聞記者上がりの人だった。会談中、ときどき冗談を飛ばしたりして、威厳を保つのにきゅうきゅうたるタイプではない。ホイットニー、ウィロビーの角逐の真ん中にあって、喧嘩に巻き込まれず、中立的立場をとっていた。
横道にそれるが、この人は日本プロ野球の恩人で、部下だったハラダという二世の将校と共に、戦後日本のプロ野球に尽力していた。

1963年3月11日、ホワイトハウスにて
駐米大使時の朝海(左)。吉田茂元首相(中央)、ジョン・F・ケネディ大統領(右)と。

朝海 浩一郎(あさかい こういちろう、1906年3月15日 - 1995年9月9日)は、日本の外交官連絡調整中央事務局長官等を経て、岸信介内閣における日米安全保障条約改定の時期を含め、駐アメリカ合衆国特命全権大使を異例の6年間務めた。退任後1963年から1982年まで外務省顧問。1976年勲一等瑞宝章。1995年正三位

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