掲載時肩書 | 大阪フイル常任指揮者 |
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掲載期間 | 1973/07/18〜1973/08/14 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1908/07/09 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 東京高校 |
入社 | 阪急電鉄 |
配偶者 | 田辺町子(芸大) |
主な仕事 | 電車→百貨店→電灯課(阪急)、大阪音 楽学校、関西交響楽団(大阪フィル)、NHK大阪、上海フィル、 |
恩師・恩人 | メッテル、伊達三郎 |
人脈 | 日向方斉、清水幾太郎、伊部恭之助、服部良一、小林米三、白井次郎、太田垣四郎、清水雅、甘粕正彦(満鉄)、鈴木剛、長谷川周重 |
備考 | 林元植・命恩人(帰国時) |
1908年(明治41年)7月9日 – 2001年(平成13年)12月29日)は神奈川県生まれ。大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を務めた指揮者。戦後の引き揚げ後は、大阪音楽学校および大阪音楽高等学校に勤務しつつ、1947年(昭和22年)4月、大阪放送管弦楽団出身者などを集め、現在の大阪フィルハーモニー交響楽団の母体となる関西交響楽団を結成する。結成にあたり鈴木剛ら関西経済人の尽力があった。同時に、参加団体として関西オペラ協会も設立した。
1.エマヌエル・メッテル先生
メッテル先生はロシア革命を逃れて日本に移り住んだ音楽家の一人だが、芸術至上主義に徹し、一口に言うとメッテル教団の”教祖“という感じだった。京大の先生も、またアマチュア、プロの区別もない代わり、メッテル先生のやり方に少しでも疑問を持つ人はとてもその傍にはいられなかった。先生にとっては信者か、敵の二つしか区別できなかったのかもしれない。先生の頑固さは学生の世界では大きな魅力だった。「君らは下手だ。下手だが君らの音楽に対する態度、行動、心が純粋だから下手でもかまわん」というのが先生の一貫した態度だった。
私の音楽人生においてメッテル先生の占める地位は大きい。阪急を辞めて音楽家としてやって行くことにした時も、先生の指示を仰いだ。すると先生は「君が音楽家を志すなら何か楽器ができなくては話にならん。今さら君のピアノではモノにならない。やりかけたバイオリンを続けなさい」といわれた。
2.伊達三郎さん
私の音楽人生で忘れられない一人が伊達三郎さんだ。伊達さんは室内楽に強い意欲を持っておられ、私がバイオリン奏者として活動している間は一緒に室内楽曲を合奏した。そして私が指揮棒をとるようになるとオーケストラの一員として、常に私を盛り立ててくださった。伊達さんは非常に口数の少ない控え目な人、私はガラガラした性格だった。知り合った年齢が伊達さんが36、7歳、私が25,6歳、ちょうど一世代違い。
私が大阪音楽学校に勤めて二年目の昭和11年(1936)、音楽学校で初めてオペラを上演することになり、生徒の出演割り振りをめぐってトラブルが起きた。この時、「絶対やるべきだ」と先頭に立って頑張ったのも伊達さんだった。おかげでビゼーの「カルメン」第一幕上演が軌道にのったのである。感謝しきれない。
3.大阪交響楽団のピンチ
昭和35年(1960)春、関西交響楽団は、映画会社との契約を守る大阪交響楽協会と、オーケストラ活動に専念する従来の関西交響楽協会との2つの運営母体に分割、楽員も平等に二分し、解散した。
ところが、大阪フィルになって映画からの収入がないため、みるみる台所が苦しくなり、8月には早くも運営にピンチがきた。「9月分の給料約600万円がこの状態だと払えない」と事務局の説明。いままでのピンチは住友銀行の鈴木剛さん個人の努力で乗り切ってきたが、鈴木さんばかりにご迷惑を掛けられないので、東京高校同期の住友金属社長の日向方齊君に相談してみた。「私一人ではどうにもならないが、関西連合会の幹部に相談してみよう」ということになり、日向、長谷川周重(住友化学社長)、芦原義重(関西電力会長)、故小林米三(京阪神急行電鉄社長)、故工藤友恵(当時大阪建物社長)の五氏の連帯保証で“つなぎ資金”をつくってもらい、危機は救われた。
このときの五氏が楽団理事会の常任理事となり、鈴木さんは名誉会長、長谷川さんが理事長に就任された。長谷川さんは「人件費はもちろんのこと、諸事万端極力節約せよ。そして財界からの寄付金の増額、国・大阪府・市からの補助金の増額を働きかけること」を三本柱として運営に臨まれた。理事、団員、事務局の全員努力の結果、13年後の今日、楽器その他の整備も進み、返せるはずのないと思っていた借金の重圧からもほとんど解放された。
朝比奈 隆 | |
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1951年ごろ | |
基本情報 | |
出生名 | 小島 隆 |
生誕 | 1908年7月9日 日本・東京府東京市牛込区市谷砂土原町 |
死没 | 2001年12月29日(93歳没) 日本・兵庫県神戸市東灘区鴨子ケ原・甲南病院 |
学歴 | 京都帝国大学法学部卒業 京都帝国大学文学部卒業 |
ジャンル | クラシック音楽 |
担当楽器 | 指揮者 |
活動期間 | 1940年 - 2001年 |
共同作業者 | 大阪フィルハーモニー交響楽団 |
朝比奈 隆(あさひな たかし、1908年(明治41年)7月9日 - 2001年(平成13年)12月29日)は、大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を務めた日本の指揮者。位階は従三位。
左利き(指揮棒は右だが、包丁は左(木之下晃の写真集より))。朝比奈の出生には謎があり、中丸美繪著『オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練』が詳しい。