掲載時肩書 | 相撲協会理事長(元横綱双葉山) |
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掲載期間 | 1960/01/23〜1960/02/09 |
出身地 | 大分県 |
生年月日 | 1912/02/09 |
掲載回数 | 18 回 |
執筆時年齢 | 48 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 立浪 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 四股名「栴檀は双葉より芳し」から、2年8場所で十両、 関脇で全勝、大関2場所で横綱、双葉山道場 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 一門(羽黒山、名寄岩)大八洲、安芸ノ海 、日蓮信仰、鏡里(弟子) |
備考 | 父:回漕業 |
1912年2月9日 – 1968年12月16日)は、大分県生まれ。第35代横綱。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、これが元で右目が半失明状態になった
1.新弟子の修行時代
新入りのとき、朝早く起きてけいこをする。兄弟子が起きる前に起きてけいこしておかなければ、けいこ時間がない。兄弟子が起きてけいこを始めるときは、急いで掃除や炊事である。けいこが終われば風呂へ行くが、風呂に行っても、関取の背中を流すことができるのは兄弟子で、それからずっと番付順に腕を洗ったり足をこすったりで、新弟子などは上がり湯を汲むぐらいのものだ。そして、朝食抜きでけいこが始まり、昼食が朝食を兼ねる。これも、番組の上から順に食べて新弟子は一番後から食べる。(この時点ではチャンコの具はほとんど、残っていなくごはんに汁を掛けて食べる)
慣れない時に昼食が待ち遠しかったぐらいで、他の雑役を苦しいと思ったことはほとんどない。この雑役に比べれば、少年時代の船乗り生活の方がはるかに苦しかった。
2.十両昇進
力士の世界では十両になると関取と言われる。関取になると、今まで人に使われていた者が、逆に人を使うようになる。若い者が一人か二人ずつついて、身の回りの世話をしてくれる。境遇が一変するのだ。私はまだ20歳の若さで、そういう位置についたことをスピード昇進と思われたとすれば、それは誤りだ。私は2年8場所で十両になった。これは、千代の山、若乃花は2場所、鏡里は3場所、吉葉山や栃錦は4場所で十両になったのに比べればわかる。しかし、大関2場所で横綱になったのは速かったと言えるだろう。
3.69連勝のストップ
これは安芸ノ海(昭和14年1月の春場所4日目)の外掛けで敗れたものだ。立ち上がった瞬間に、あっという間もなくの外掛けだった。当時、敗因の弁解がましいことは潔しとしなかったので言わなかった。今にして言えば、前年夏場所の後、満州や北朝鮮に巡業と慰問したとき、アミーバ赤痢にかかった。軍の慰問を目的としていたので、衰弱しても各部隊の慰問は横綱一枚看板だったため、一日5回も6回も駆り出されて、へとへとになった。体重も33貫が27貫に減り、衰弱していた。
4.秘技:受けて立つ(後手の先)
私の場合は、向こうに応じて立つ、向こうが立てば立つ。しかし、立った瞬間には、あくまで機先を制している-そういう立ち方だ。つまり後手の先である。西部劇のピストルの果たし合いのようなもので、相手がピストルに手をかけるやいなや、自分のピストルを抜いている。あの状態である。立った瞬間には、自分の十分な体勢になっているのだ。
5.右目は失明に近い状態(引退後に打ち明ける)
6歳のとき友達といたずらをしているとき、右目を痛めた。相撲界に入り勝負に際して、できるだけ目に頼らぬように心掛け、右目の影響が自分の相撲に表れないよう工夫した。体で相手の動きを感じとり、体で相手のすきをつかむようにした。それゆえに、また人一倍修練を積んだつもりである。
つまり逆説的な表現をすれば、右目が悪かったから、私の相撲が強くなれたということになりそうである。
苦労話の極め付きエピソードは、文化部長の刀根浩一郎氏が大横綱・双葉山(時津風親方)の担当記者の涙ぐましい苦労話を次のように紹介しています。
「ごっつあんです」で18回(前代未聞の取材)
「双葉山の時津風定次日本相撲協会理事長である。時津風理事長の『履歴書』は昭和三十五年一月末に掲載した。
『履歴書』の原稿が、談話の形式でも出来上がることを知って、時津風さんは登場を承諾、まず記者が取材にうかがった。ところが、時津風さんは、玄関先でその記者に、
『ごっつあんです。よろしく』と一言いったまま奥にひっ込んでしまった。
いかになんでもこれはひどい。『ごっつあん』と『よろしく』で、どうして『履歴書』が書けようか。“周辺取材”を始めるにしても、手がかりさえない。
結局、その記者は、このふた言から十八回の原稿をものにしたが、時津風さんの寡黙ぶりは想像を絶するものがあった」(「談話取材は裏話がいっぱい」215P)
私は、これを読んで思わず笑ってしまい、再度「私の履歴書」を読み直してみました。その概略は、次のようでした。
・双葉山の子供時代は家業が廻船業で石炭を親子で大阪や広島に運んだが、それが足腰の鍛錬となる。
・相撲界に入り、2年8場所で十両に昇進する。(比較:千代の山、若乃花は2場所、鏡里は3場所、吉葉山や栃錦は4場所で十両)そして、大関2場所で横綱になる。いかに大関以後の昇進が速かったかがわかる。
・69連勝で止めたのは安芸ノ海(昭和14年1月の春場所4日目)の外掛けだった。前年夏場所の後、満州(現・中国東北部)や北朝鮮に巡業と慰問に行ったとき、アメーバ赤痢にかかった。衰弱しても各部隊の慰問は横綱一枚看板だったので、一日5回も6回も駆り出されて、へとへとになった(横綱鏡里は弟子だった)。
・有名な彼の相撲スタイルの「受けて立つ」(後の先)については、次のように書いている。
「私の場合は、向こうに応じて立つ、向こうが立てば立つ。しかし、立った瞬間には、あくまで機先を制している」
そういう立ち方だ。つまり後手の先である。西部劇のピストルの果たし合いのようなもので、相手がピストルに手をかけるやいなや、自分のピストルを抜いている。あの状態である。立った瞬間には、自分の十分な体勢になっているのだ。
・右目は失明に近い状態だったと、引退後に打ち明ける。彼が6歳頃、友達といたずらをしているとき、右目を痛めた。相撲界に入り勝負に際して、できるだけ目に頼らぬように心掛け、右目の影響が自分の相撲に表れないよう工夫した。体で相手の動きを感じとり、体で相手のすきをつかむようにした。また、それゆえに、人一倍修練を積んだつもりだという。
だから逆説的な表現をすれば、右目が悪かったから、自分の相撲が強くなれたということになりそうである。
これを読んで、相撲の奥義をここまで詳細に書き込んだ担当記者のプロ根性に脱帽し、賞賛を贈りたくなります。きっとこの記者は戸籍謄本を手に、時津風親方の郷里を訪問し、小学校の恩師や友人、親戚縁者からいろいろなエピソードや人柄を取材されたと推察します。
相撲界では兄弟子や付き人、相撲協会関係者からも相撲の技術や考え方に関する取材をして、18回の連載を完成させたと思われます。まさに、この記者の努力がなければ、双葉山の「私の履歴書」として後世に残らなかったでしょうから、大相撲ファンは取材記者に感謝しなければなりません。
また、日本画家の奥村土牛も寡黙な難敵だったようです。
記者がいろいろ質問しても沈黙しているときが多く、あるときは黙って応接室を出ていき、しばらく戻ってこない。しばらくして戻ってくると、「本日は話す気になれませんので、また後日」と書いた紙を1枚差し出したとのエピソードには仰天しました。困って狼狽する記者の顔が見えるような気がします。
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双葉山定次(1940年頃) | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 双葉山 定次 | |||
本名 | 龝吉 定次 | |||
愛称 | 不世出の横綱 相撲の神様 昭和の角聖 立浪三羽烏 無敵 うっちゃり双葉 協会の知恵袋 古今十傑 大鉄傘下の花形力士二人 | |||
生年月日 | 1912年2月9日[1] | |||
没年月日 | 1968年12月16日(56歳没) | |||
出身 | 日本・大分県宇佐郡天津村布津部 | |||
身長 | 179cm | |||
体重 | 122kg | |||
BMI | 38.13 | |||
所属部屋 | 立浪部屋 →双葉山相撲道場 | |||
得意技 | 右四つ、寄り、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第35代横綱 | |||
生涯戦歴 | 348勝116敗1分33休(51場所) | |||
幕内戦歴 | 276勝68敗1分33休(31場所) | |||
優勝 | 幕内最高優勝12回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1927年3月場所[1] | |||
入幕 | 1932年2月場所[1] | |||
引退 | 1945年11月場所[1] | |||
引退後 | 第3代日本相撲協会理事長 | |||
趣味 | 写真[2] | |||
備考 | ||||
金星1個(武藏山武) | ||||
2015年9月7日現在 |
双葉山 定次[注釈 1](ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)[1]。
現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た[3][4]。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ[3][4]。
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