掲載時肩書 | 衆議院議長 |
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掲載期間 | 1958/06/27〜1958/07/28 |
出身地 | 岡山県 |
生年月日 | 1887/03/17 |
掲載回数 | 32 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 六高 |
入社 | 片山哲と法律相談所 |
配偶者 | 桜正宗娘 |
主な仕事 | 学生記者、「上杉・美濃部憲法論争」上梓、白蓮事件、犬養秘書、公娼廃止、鳩山派 |
恩師・恩人 | 犬養毅(嫁仲介) |
人脈 | 林譲治、大原孫三郎、田中耕太郎、片山哲、西尾末広、鳩山一郎、遠藤新(建築家)、城戸四郎 |
備考 | 大地主、父・貴族院議員 |
明治20年〈1887年〉11月6日 – 昭和55年〈1980年〉1月3日)は岡山生まれ。弁護士、政治家。衆議院議員。元衆議院議長。戦前は普通選挙運動、婦人参政権、公娼廃止に熱心な自由主義的・進歩的な立場を貫き、戦時中も議会政治擁護の立場を変えなかった。戦後は山崎首班工作に関与したこともあった。あと4年議員を続ければ名誉議員の資格である議員在職50年の表彰を受けることができる状況で、秘書の加藤六月を後継者に指名し、政界を引退。政界引退後は自民党顧問、共立女子大学理事を務めた。
1.片山哲君と法律相談所を開く
大正6年(1917)、大学を卒業して実社会に第一歩を踏み出した。日比谷の3階建てビルを2万7千円で買い取り、片山哲君たちと一緒に法律相談所を開いた。そこでは私が経営主任で、片山君が実際の法務を受持ち、どんなことでも1円均一でやった。当時、法律問題1件1円均一というのは、珍しいことだった。
法律相談所のお客さんは、ご婦人の方が多かった。持ってくる問題も、警察関係の身の上相談といった傾向があった。1~2年たつと片山君はこの道のエキスパートになり、世の中にはささいな悩みをいっぱい持っている「婦人の道しるべ」を作ろうとした。それが彼の経験を生かした「婦人と法律」という本になった。
片山君は後日、社会党の委員長、総理大臣を務めたが、清濁併せて飲む必要のある政治家と考えるより、むしろ個々の幸福を築き上げる卓越した社会の牧師と私はみている。
2.柳原白蓮事件
この法律相談所はいろいろな問題を快刀乱麻に解決したが、内部でも問題が発生した。それが白蓮事件である。主人公は宮崎竜介君という。彼は解放という雑誌の編集にいたが、二足のワラジを履くというか、一方では弁護士の肩書で、私の事務所の一員でもあった。編集という仕事の性質で彼は白蓮女史の所へ原稿をとりに行く機会が多かったという。そのうち、寂しい生活をしている白蓮女史と青年宮崎の間に、何か心に通い合う感情が芽生えたものらしい。
やがて、双方すっかり共鳴したというか、縁があったというか、ついに竜介君は白蓮女史をかくまって、東京へ連れてくるというのっぴきならぬ場面を迎えた。これは当時、婦人問題の権威となっていた片山主任弁護士としても、自分の内部に、どえらい実際問題を引き受けたことになる。私もむろん相談にあずかって、事務所の一隅で、あれこれ知恵を絞ったものだが、その間のいきさつは、今日までお二人が円満な生活をしているという事実が、何より雄弁に物語っているように思う。
3.選挙スローガンは「公娼廃止」と「婦人参政権」
大正9年(1920)、私は初めて代議士選挙にのぞんだ。選挙に掲げたスローガンは「公娼廃止」と「婦人参政権」の2つである。婦人参政権は、当時はまるで雲の上の話みたいに考えられていたので、私としてはまず理想として主張し、世論がわき上がるように持って行き、同志を一人でも増やそうというのがせいぜい。
ところが公娼廃止は大変だった。遊郭側は何といっても死活問題だから、猛烈な反対運動を繰り広げる。遊郭側に利害のある連中、またそこから出ている代議士も、陰に陽に妨害する。先に成立した売春防止法の場合など、全然比べものにならないくらい激しいもので、時には命の危険を感じることもあった。
4.片山首相に私が野党代表質問
昭和22年(1947)、社会党が第一党となり総理大臣は片山哲君だった。野党となった自由党の私は、攻守所を変えて、政府を攻撃、政策を批判することになる。皮肉にも私は片山首相の施政方針演説に対する質問第一陣に立つよう指名された。片山君は長年の親友であるし、一方私は党の総務会長をやっている、進退全く極まったが、私は勇気を出してよしやってやろうと心に決めた。しかし、質問のとき片山君の奥さんが傍聴席にいて、「あんなにひどくやらなくてもいいのに・・」と、漏らしたそうだ。
星島 二郎 ほししま にろう | |
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1932年 | |
生年月日 | 1887年11月6日 |
出生地 | 岡山県倉敷市藤戸町 |
没年月日 | 1980年1月3日(92歳没) |
死没地 | 東京都 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学法律学科 |
所属政党 | (立憲国民党→) (革新倶楽部→) (立憲政友会→) (政友会正統派→) (同交会→) (翼賛政治会→) (無所属→) (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) (分党派自由党→) (日本民主党→) 自由民主党(岸派→藤山派) |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
親族 | 父・星島謹一郎(貴族院多額納税者議員) |
第47代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1958年6月11日 - 1958年12月13日 |
天皇 | 昭和天皇 |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1947年1月31日 - 1947年5月24日 |
第27代 商工大臣 | |
内閣 | 第1次吉田内閣 |
在任期間 | 1946年5月22日 - 1947年1月31日 |
選挙区 | (岡山県第2区→) (岡山県第2区→) (岡山県全県区→) 旧岡山2区 |
当選回数 | 17回 |
在任期間 | 1920年5月10日 - 1966年12月27日 |
星島 二郎(ほししま にろう、1887年(明治20年)11月6日 - 1980年(昭和55年)1月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。元衆議院議長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。