掲載時肩書 | 聖路加看護大学学長 |
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掲載期間 | 1990/09/01〜1990/09/30 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1911/10/04 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 聖路加HP |
配偶者 | 教会学校教師 |
主な仕事 | 看護師に感謝、39歳米留学、半日ドック、生活習慣病、よど号、健康管理財団、全人医療、ホスピスケア推奨、看護大学 |
恩師・恩人 | 谷口真一、矢内正一、W・オスラー博士 |
人脈 | 永井柳太郎(KG)、池見酉次郎、橋本寛院長、沖中茂雄先生、笹川良一、岩村昇 |
備考 | 父:牧師広 島女学院、メソジスト派 |
1911年(明治44年)10月4日 – 2017年(平成29年)7月18日)は山口県生まれ。医師、医学者。専門は内科学で、成人病と呼ばれてきた血栓によってひき起こされる心臓病、脳卒中の予防につなげるため1970年代から「習慣病」と呼び、旧厚生省はこの考えを受け入れ1996年に「生活習慣病」と改称し、その後広く受け入れられた。1995年3月に発生したオウム真理教による「地下鉄サリン事件」では、聖路加国際病院を開放する決断を院長として下し、外来患者の診察など通常業務をすべて停止し、83歳の日野原は陣頭指揮を執り、被害者640名の治療に当たった。これができたのは、この3年前に日野原が北欧の病院の視察からヒントを得て日野原の発案で大災害を見越して廊下、待合室の壁面に酸素配管約2,000本を設置していたことや、広いロビーや礼拝堂を設けていたからである。聖路加国際病院名誉院長。
1.最初の患者(医師の使命・・悔いが残る)
昭和12年(1937)の3月、京大医学部を卒業して、4月に同大学の真下内科に入局。入局直後の患者の一人に16歳の少女がいた。滋賀県の紡績工場で働いていたが、結核性腹膜炎が悪化して入院してきた。母子2人だけで貧しい家だから小学校を出て直ぐに働きに出て、病気になったのである。梅雨になり、蒸し暑い日が続き少女の食欲はますます衰えた。上腕はひどく細くなって、血圧測定のために腕帯をするのにまるで細い棒を巻いているようであった。少女は時々、ひどく腹痛で苦しみ、そのたびに呼ばれたが、指導医から私は、どんな患者にもモルヒネはできるだけ使わないようにという指令を受けていた。
7月下旬の、ある日曜の朝、少女の容体は早朝からひどく悪化し、嘔吐が続き、私が病棟に駆け付けた時、腸閉塞の症状を示し、血圧は下がり、個室の重症室に移された。苦しみを止めるにはモルヒネ注射しかなかった。「先生、どうも長い間お世話になりました。私は、もうこれで死んでいくような気がします。母には会えないと思います。先生、母には心配をかけ続けて、申し訳なく思っていますので、先生から母によろしく伝えてください」。少女はこう頼むと、私に向かって合掌した。私は耳元で「しっかりしなさい、死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから」と大声で叫んだが、彼女は息絶えた。
最初の診断書を書きながら疑問がずっと残った。なぜ私は「安心して成仏しなさい」と言えなかったか。「お母さんには、あなたの気持ちを十分に伝えてあげますよ」となぜ言えなかったのか。脈を診るよりも、どうして彼女の手を握ってあげなかったのか。
患者が死を感じて、言葉を残そうとしている時には「看護婦さん、注射、注射」とゴタゴタ処置するよりも、そばにいて手を握って話を聴いてあげることこそ、最後の時間を大切にしてあげることではないか。この疑問が半世紀後の今、私がホスピスケアを作りたいことに繋がっている。
2.医師の日米違い
昭和26年(1951)、日米講和条約が締結された年に米国留学が実現した。米国医師の診療に驚いた。
①診察室の医師の椅子が粗末で、日本の医師のように上等な椅子ではなく、患者と同程度だった。
②一番驚いたのは整形外科の教授が自分で病室に行き、自分の手術する患者を椅子に乗せて手術室に連れて行くのを見た時だった。患者を人間としてきちっと扱っていたのである。
③医師は入院患者を診察する時は、ベッドサイドに腰かけを取寄せて座った。大抵の医師は立って患者を見下ろすような態度でものをいう。患者は医師を仰ぐ形になって非常に圧迫を感じる。米国の医師は患者の視線と合うように座った。
④米国の診察室は質素で小さいけれど、患者を大切にしている。問診の時間が長い。平均30~40分。
⑤医師は診察する時、白いガウンを着ないこともよくある。ホワイトガウン高血圧症という言葉がある。白衣を着た医師が血圧を測ると、最高血圧値は平均20以上高くなる。これをなくすには、もっと患者とのコミュニケーションを大切にすることが必要だと思った。
3.人間ドックの効用
人間ドックというと、一般の人は、ただ検査を受けて、健康を確認してもらうか、病気があれば、早期に発見してもらえれば良いと思っている。しかし、異常がなくても、間違った生活習慣が今後続くと、何年か先には、何かの成人病になる。だから私は「習慣病」という新語を作り、自力予防を唱えてきた。
ドック入りの際に、食事の内容、タバコや酒、運動についての適切な指導受けて現在発病していなくても、新しい生活習慣に切り替えれば健康が勝ち取れる。それが人間ドックの一番の効用である。
4.母校小学校で授業
昭和62年(1987)の5月に私はNHKの「授業」の録画を頼まれて母校、神戸市立諏訪山小学校を訪れた。担任の渡辺先生の案内で教室に入った。皆、孫のように見えた。私は生涯自分が専攻してきた心臓や血圧の話をどう話せば皆によく分かってもらえるかということを思案したあげく、心臓の模型と、20本の聴診器と20個の血圧計を持っていき、二人ずつが一組となって互いに心臓の音を聴き、血圧が測れるようにした。
また、内腔が錆びでつまりかけている古い水道管の一片を教材に持って行った。子供たちは、初めて耳で人間の心音を聴いた時、非常に興奮した。また、上腕に血圧帯を巻いてそれに空気を押し込み、上腕の動脈をペシャンコに圧迫した後、空気を抜いていくとヒジのところに当てた聴診器から血管音が聴こえる。この音が聴こえ始める点と、やがて消える点とをメーターで読ませると、最高血圧と最低血圧とが測れる。学童の耳は、非常に聴覚が発達しているので、生徒は全員わずか1時間の授業で相手の友達の血圧を測ることができた。
私が学童にやらせたことは、心音をお互いに聴かせ、また血圧を測らせるということであった。友人や自分の心臓の上に聴診器を当てて聴くと、心臓の一拍一拍ごとに生じる心音が聴こえる。その時の子供たちの目の輝きを私は忘れることができない。心音を聴かせ、また血圧計の使い方を教えて、相手の血圧を測らせることは、まさに経験学習である。
後日、この「授業」に対する生徒の感想文が受持ちの先生によって送られてきた。その中には、心臓の模型を見て、心臓には4つの部屋があって、その中に血が溜まっていることが分かったとか、人間の欠陥も水道管と同じく、弱り始めたら中が錆びて詰まるかもしれないとか、ぼくらは健康でなくてはならないという文章があった。
この「授業」で私は、子供にはいろいろの経験をさせることが本当の教育だと確信を思った。大人の生涯教育もまた同じ方法が有効で、私はこれを一般人ボランティアの教育にも実施している。この授業後、所用で米国に旅行した。感想文を書いてくれた34名の生徒の一人ひとりにフィラデルフィアの絵葉書を送った。
先生は’17年7月18日105歳で亡くなった。若い人からも年齢の高い人からも尊敬を受け、愛された人だった。日経の「私の履歴書」に登場したのは1990年9月で79歳のときであった。その初日の冒頭に次のように書いている。
「人は死すべきものである。この自明の理を前に、医学はどれほどのことをなしてきたか。内科医となって53年近くの長い間、多くの人の死に立ち会った。その挙句、私が考えるのは、人間の終末が何と不幸なことか、という事実である。ガン末期にみる血圧低下やショック、心停止の場合に、蘇生術や気管内挿管をするのは、かえって患者の最期を苦しめ、生命の尊厳に逆らうことになると私は思う。治る見込みのない病人の命を、高度のテクノロジーでただゴムひものように長く引き延ばすよりは、残されたいくばくかの短い命を心豊かに過ごせるように、最後のケアをしてあげることが最も必要なことでないだろうか。」
主治医であった聖路加病院の福井次矢院長が日野原先生に「経管栄養を提案したが、先生は明確に「やらない」とおっしゃった」と記者会見で述べている。日野原先生はご自身の医療観を全うされたのだった。
先生は両親とも敬虔なクリスチャンで本人も7歳で受洗している。父親が関西学院の神学部教授の関係で関西学院の中等部に入学し、建学の精神「Mastery for Service」(奉仕の精神をマスターする)を叩き込まれたという。同門会の講演会には優先的に来てくださり、年齢の高い後輩たちに次のように励ましてくれた。「60歳から75歳はヤングシニア、76歳から90歳までがミドルシニア、91歳以上がオールドシニアです。みなさんはまだ、ヤングかミドルの人が多いのですから、建学の精神を忘れず「奉仕の精神で社会貢献してください」と。そして私は今98歳ですが、103歳まで人様のお役に立ちたいスケジュールが決まっています。これが終わるまで死に切れませんと言ってみんなを笑わせた。ユーモアがあり人を包み込むような温かみのある人でした。みんなから愛されたゆえんでした。
駐日アメリカ合衆国大使公邸にて(中央、2013年5月撮影) | |
人物情報 | |
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全名 | 日野原 重明 |
生誕 | 1911年10月4日 日本 山口県吉敷郡下宇野令村 (現:山口市) |
死没 | 2017年7月18日(105歳没) 日本 東京都世田谷区 呼吸不全 |
出身校 | 京都帝国大学 |
配偶者 | 日野原静子 |
両親 | 日野原善輔(父)、日野原満子(母) |
学問 | |
学位 | 医学博士 (MD, PhD)[1] |
主な受賞歴 | 従三位 勲二等瑞宝章 文化勲章 |
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年〈明治44年〉10月4日 - 2017年〈平成29年〉7月18日[2][3])は、日本の医師、医学者。位階は従三位。学位は医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長。
京都帝国大学医学部副手、大日本帝国海軍軍医少尉などを経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長、英知大学客員教授などを歴任した。
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