掲載時肩書 | 元ヤクルト、西武監督 |
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掲載期間 | 2010/08/01〜2010/08/31 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1932/02/09 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 巨人 |
配偶者 | 恋愛 |
主な仕事 | 13年で退団、解説者、広島・ヤクルトコーチ、監督、西武、日本一3、指導者育成、ロッテGM、 |
恩師・恩人 | 中村天風 |
人脈 | 川上(反目)、ブレイザー、荒川博、植芝盛平、 藤平洸一、石毛宏典、田渕幸一、 |
備考 | ストイック |
1932年2月9日 – )は広島県呉市生まれ。元プロ野球選手(内野手)・元監督、野球解説者(評論家)。
現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた。千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャーを経て現在は野球評論家。
1.入団時の巨人軍
1954年(昭和29)、巨人に入団した時の春季キャンプのことは、未だに一番強烈な思い出として残っている。千葉県・木更津の一次キャンプを終えて、兵庫県・明石の二次キャンプである。
ベテラン選手の技術の高さに驚いたこともあるが、当時の練習が徒弟制度ともいえる理不尽なものだったからだ。たとえば、打撃練習ではまず「打撃の神様」川上哲治さんが時間の半分ほど打ちまくる。続いて千葉茂さん、南村侑広さん、与那嶺要さん、樋笠一夫さん・・・。最後にやっと新人の私が打撃ゲージに入っても5、6球で終わりである。現在のように手取り足取り教えてくれるコーチもいなかった。
当時は選手一人ひとりが自分の技術を売り物にする一国一城のあるじ。他人のことに関心はないし、まして教えるなんてとんでもない、という雰囲気だった。プロとして一つの理想でもあるが、新人の私にとっては、いじめにも等しい仕打ちだった。
2.悪送球を川上哲治さんは捕らない
川上さんには後に冷たい仕打ちを受けることになるが、元はといえば自分が種をまいたと、今は分かる。私の長兄、南方で戦死した晋と同じで12歳上。水原茂監督は新人を紹介する時に「兄弟の一人が入ってきた。末っ子が入ってきたと思って可愛がってくれ」とよく言っていた。それを真に受けたわけでもないが、長兄のつもりで甘えて、川上さんが調子の悪い時に、厳しいタテ社会なのに「カワさんも苦労してるね」なんて軽口をたたいていた。
ただ、守備練習で本当にストライクでないと捕ってくれないのには参った。同じ捕ってくれないにしても二塁手の千葉茂さんは「オレが捕って一塁に送球する時に、一番やり易いところへ投げろ」という無言の教えだった。試合では捕ってくれた。だが、一塁手川上さんの場合は年齢による衰えもあったから厄介だった。「この範囲に投げればオレは捕るけれど、それ以外はお前が悪い」である。
3.守備を開眼
少しでも守備範囲を広くして、確実に補給して、素早く送球するーー。守りの技術を追求したが、なかなか答えが出ない。逆にミスが増えるありさま。正直いって、「打球が私のところへ飛んでくるな」と祈るような気持にもなっていた。
転機は1958年(昭和33)に立大から長嶋茂雄選手が入団し華麗な守備と、いきなり本塁打王と打点王になり、時代を超えたスーパースターになっていた秋だった。名門セントルイス・カージナルスを招いて行った日米野球だ。至宝、スタン・ミュージアルが目玉だったが、私が注目したのは同い年のドン・ブラッシンゲーム二塁手だった。
堅実派プレーの秘訣を探ろうと毎日、目を凝らしていたら、ある日気が付いた。打球が来る前の準備が大切だということ。自分はボールが来たら捕ればいい、というレベルで、それだから構え遅れもしていた。投手が投球動作に入ると同時に守備態勢に入って集中し、どんな打球にも対応できるようにする。経験から打球のコースが読めればさらにいい。
真似してみたら、ボールが見えてきた。ぴしゃッと捕れるようになってきた。私の守りの師ともいえる大リーガーは後に、ブレイザーという登録名で、南海、阪神などで、選手としても指導者としても活躍されたが、2005年に73歳で亡くなった。
1955年撮影 | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県呉市 |
生年月日 | 1932年2月9日(92歳) |
身長 体重 | 180 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手 |
プロ入り | 1954年 |
初出場 | 1954年4月4日 |
最終出場 | 1966年5月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1992年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について |
広岡 達朗(ひろおか たつろう、旧字体:廣岡[注 1]、1932年〈昭和7年〉2月9日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(内野手)・元監督、野球解説者(評論家)[2]。
現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた。千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャーを経て現在は野球評論家。愛称は「ヒロ(さん)」。
実兄・広岡富夫は公務員(広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を打った広島カープの元選手である[3][4][5]。
辛辣で歯に衣をきせない一面があり、古巣である巨人に対しても厳しい批評を下すことがある[6][7][8]。
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