掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 2008/07/01〜2008/07/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1932/03/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 76 歳 |
最終学歴 | 日本女子大学 |
学歴その他 | 付属高校 |
入社 | 医院書生 |
配偶者 | 伊東昌輝 |
主な仕事 | 西川流名取、長谷川伸先生看護、舞台「明治の女」・テレビ「旅路」「肝っ玉」「御宿かわせみ」「西遊記」 |
恩師・恩人 | 長谷川伸、 戸川幸夫 |
人脈 | 山岡荘八、山手樹一郎、村上元三(兄弟子)、河内桃子 、島田正吾、辰巳柳太郎、山本富士子、 |
備考 | 父:宮司 |
1932年3月15日 – 東京都生まれ。小説家、脚本家。長谷川伸門下。『鏨師』で直木賞を受賞後、女の生き方を描いた国際色豊かな家庭物や恋愛物、推理物で人気を集め、他方でテレビドラマの脚本家として多くのヒット作を生み出した。その後時代小説に専念。永く活躍している。代表作に『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズなどがある。TBS系テレビドラマ『ありがとう』シリーズ、『肝っ玉かあさん』シリーズ、TBS系東芝日曜劇場『女と味噌汁』シリーズ、『下町の女』シリーズやNHK大河ドラマ『新・平家物語』を始めとするテレビドラマの代表作や演劇の脚本を書くかたわら、小説も次々と発表している。
作家・長谷川伸に弟子入りして、次のように厳しく指導を受けて実行した。
・町を歩いていても、乗物の中でも、喫茶店でも相手に失礼にならないようにさりげなくその人、その人を観察し、さまざまなことを推察するのが先生から出された宿題で随分多くの発見をした。
・小説は人間を描くものである以上、人間について始終目くばりをしなければならない、自分はどのような目線で人間を見ているのか、自分らしい目線は自分を鍛えなければ出来ないという人生の奥義に私はただうなだれるばかりであった。
1.宮司の母親の口癖
母親は、私が小学生のころから口癖のように言い続けた。そんな怠け者では親が死んだ後、一人で生きていけませんよ。人の力をあてにしないで何でも自分で一人でやりなさい。一人ぽっちになった時、人に優しくしてもらいたかったら、今から人に優しくしなさい。親はいつまでもあなたの傍にいられないのですから、いつ一人になっても困らないように自分で鍛えておかなければなりません。子供心に母の言葉には真実味があった。
2.書き直し9回
幼稚な私の第1作「女の法案」は戸川幸夫先生によって9回書き直しを指示された。現代の吉原に登楼したらお茶が一杯出てくるだけ、君の書いたように料理屋のようなお膳が次々と運ばれることはない、といったことから始まって、心情描写の曖昧さ、書いている私自身の一人合点、文章の間違いから言葉遣いに対する気くばりまで、1回書き直すたびに細かい注意を受け、また書き直しては、こういうことはない、こうしたことはいけない、と訂正が出る。私の方はなるほどと合点して書き直すだけだが、戸川先生にとってどれほど面倒で厄介な作業であったか、今でも身がすくむ。
時折、困ったように考え込まれ、言葉を選びながら説明され、終わりには必ず、もう一息だ、正念場だよ、と付け加えられた。つまり、先生は「女の法案」という作品をたたき台にして私を小説の本質に何とか近づけようとなさったのだと思う。
3.テレビドラマの脚本
私が「鏨師」で直木賞をいただいたのち、テレビドラマの脚本を書くことを賛成された長谷川伸先生は、その理由を2つ挙げられた。①私が小説の中で書くせりふが観念的で生硬い。生きたセリフを描く勉強には芝居の脚本が早道だが、昨日今日の新人には難しい。②これからはテレビの時代になる。テレビドラマは今の所、参加する人々がみな新人のようなものだ。同じスタートラインに並んでいるなら、こちらの方がやりがいがあるのではないか、と。
しかし最後に、テレビドラマの仕事がやがて順風満帆になったら思い出すことだ。自分は小説を書いて世に出たのだと。鳥が最後に帰っていく巣のことを忘れてはいけない。
4.長谷川先生への夜の見舞客
先生が重病で築地の聖路加病院に入院されたとき、夜も見舞客があった。勿論、規則違反で入院病棟の入口にはナースステーションがあり、そこから先は入れない。そこで捕まってしまうのは、主として昼間は舞台があって、くるに来れない俳優さん達であった。とりわけ、長谷川先生に最も近い方々、新国劇の島田正吾、辰巳柳太郎、歌舞伎の中村勘三郎(十七代目)の諸氏は、長谷川先生を親とも思っている日常なので規則は承知していてもじっとしていられないようで、島田、辰巳のお二人は毎度、ナースステーションのご厄介になった。
看護婦さんの話によると、ステーションでとがめられた時、島田さんは自分がどこの劇場で何時から何時まで舞台に出ているか、休日は全くないし、朝は何時から何時まで楽屋入りをしなければならないとか延々と説明し遂に看護婦さんも根負けし納得して許可してしまう。一方の辰巳さんは言葉もなく看護婦さんを前にしてひたすら頭を下げ、やがて大粒の涙を流して男泣きに泣いて、度肝を抜かれた看護婦さんが病室まで案内してくださったらしい。
また勘三郎さんは、ナースステーションの前をどうやって通り抜けてくるのか、さりげなく病室のドアを開け、ベッドで昏々と眠っていらっしゃる長谷川先生を暫く見つめていて音もなく消えていく。
後に長谷川先生が小康状態になられた時、その話をすると、「三人とも、各々にらしいねえ」と涙ぐんだような目をなさってうなづかれた。
5.教えを受けた人生
もし、私の周囲に、それが人間の成長だと教えてくれる人が居なかったら、私の一生は惨憺たる有様でしかなかったと思う。私には娘を信じてくれた親があり、人が生きるとはどういうことなのか、ご自身の一生を通して教えてくださった恩師、先輩があった。努力をしなければと年中、気合をかけてくれた友人がいた。自分が老いて、かけがえのない大切な人が次々とこの世を去ってしまわれた今、気がついてみると、私には9人の家族ができていた。
氏は’23年6月9日、91歳で亡くなった。この「私の履歴書」に登場は’08年7月で76歳のときでした。
氏の講演内容がすばらしいので下記にご紹介する。
2000年11月16日 高松市民会館での講演
・長谷川伸先生が亡くなられたのは昭和38年6月11日のことでした。その通夜の晩、玄関で下足番をしていた私に、3人の兄弟子たち(山岡荘八、山手樹一郎、村上元三)が私を引きずるようにして引っ張ってゆき、お棺の前に座らせました。そして、次のように打ち明けてくれたのでした。
・・一番歳嵩の山岡先生が3人を代表して質問したそうです。
「先生は我々に対しては厳しく指導してくれましたが、平岩君には優しく丁寧に指導されるのは甘やかしすぎではありませんか。その理由をおきかせください」と。
そのときの先生の回答は、
「ぼくは自分でも、平岩君を甘やかしていると承知している。理由はたった一つ。それは年齢の差だ。君たちと僕には、父親と息子として共に学びあい鍛えあう長い長い歳月があった。しかし、平岩君と僕には、孫娘とじいさんの歳の差がある。君たちに対するのと同じやり方をしていたのでは、とてもぼくの命が間にあわないんだよ。加えて平岩君は、若くして大きな文学賞を頂戴した。世間様はラッキーだ、幸運児だと言ってくださるが、当人にとっては大変な重荷に違いなくて、ぎりぎりまで背伸びしているのが君たちの目にも分かるだろう。もしも誰かがその背中を指の先ででも押せば、あの子は谷底に真っ逆さまに落ちてゆく。その谷底にはね、これまでどれほど多くの作家を呑み込んできたことか・・・」
そういって、それらの作家たちのことを想ってか、先生は嘆息されたそうです。
「平岩君がそうならないためのたった一つの方法――それは、あの子の背伸びした踵の下に踏み台を必要なだけ投げ込んでやることだ。間もなく別れの日は来る。遠からず来る。僕にはそれしか方法が残されていないのだよ」。
この打ち明け話を、3人の先輩は涙をぽろぽろ零しながらしてくださいました。
「おやじさんはね」――そう、先輩たち長谷川先生のことを尊敬と愛情をこめてこう呼んでいました。「おやじさんはね、これだけの思いを遺してあの世へ旅立たれた。それが君に分かるなら、この先どんなことがあろうとも、谷底に転げ落ちても血まみれになろうとも、自分の力で這い上がってこい。『もう、書けない』という台詞だけは、僕たち3人の目の黒いうちに絶対に聞きたくない。頑張るんだよ。しっかり歩けよ…」
そういって先輩たちが私の背中を叩いてくれた日から、すでに40年近い歳月を数えます。
また、日経新聞(23年6月19日付)の朝刊に下記の追悼文が載っていた。
半世紀以上にわたって心温まるエンターテインメント小説を書き続けた平岩さん。支えたのは「文学をする者は人の心の重みが分からなければならない」という師、長谷川伸の教えだった。
取材などで話をうかがった時も、内容は自然と師の思い出に向かった。2人が同じ誕生日で同じ干支(えと、48歳差)だった、来客の外見や話しぶりから年齢、職業などを推察する訓練を通じて人間観察の大切さを教えられた。
27歳の時、小説「鏨師(たがねし)」で直木賞を受賞。同作は刀剣鑑定を趣味とする神職の父の元に集まった人々を見て書いた。順調過ぎる出発に最も戸惑ったのは本人。長谷川が率いる「新鷹会」で戸川幸夫、山岡荘八、池波正太郎らそうそうたる先輩作家に囲まれ、必死で文学修業に取り組んだという。
確かな時代考証を重視したことでも知られる。「月いくらで暮らしていたのか、どういったものを食べていたのか、背景が分からないと、登場人物は危なくて動けない」と話していた。
創作に邁進(まいしん)する一方、家庭も大切にした。新鷹会の仲間である伊東昌輝さんと結婚、2女に恵まれた。「(作家に必要だといわれた)孤独になんぞ死んでもなりたくなかった。家族のために八十パーセントの時間を費やしても(執筆は残りの)二十パーセントで充分」。2008年に本紙に連載した「私の履歴書」でそう記している。
小説「御宿かわせみ」で大川端の旅籠(はたご)に集う人々が醸す温かな雰囲気、テレビドラマ「ありがとう」での母娘の結びつき。それは平岩さんが私生活でも求めたものだったのだろう。
一人っ子ゆえ、「生まれた時から孤独の恐怖にさらされていた」という平岩さん。その人生は身近な人とばかりでなく、作品を通じて多くの読者とつながっていた。
(中野稔)
平岩 弓枝 (ひらいわ ゆみえ) | |
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文化勲章受章に際して公表された肖像写真 | |
誕生 | 1932年3月15日 日本 東京府東京市渋谷 (現:東京都渋谷区) |
死没 | 2023年6月9日(91歳没) 日本 東京都 |
職業 | 小説家 脚本家 |
国籍 | 日本 |
ジャンル | 時代小説、現代小説、推理小説 |
代表作 | 小説 『鏨師』(1959年) 『女の顔』(1969年 - 1970年) 『御宿かわせみ』シリーズ(1974年 - 2006年) 『花影の花』(1990年) 『西遊記』(2007年) ドラマ脚本 『ありがとう』シリーズ(1970年 - 1973年) 『肝っ玉かあさん』シリーズ(1968年 - 1972年) 『女と味噌汁』シリーズ(1965年 - 1980年) 『下町の女』シリーズ(1970年 - 1974年) 『新・平家物語』(1972年) |
主な受賞歴 | 直木三十五賞(1959年) NHK放送文化賞(1979年) 吉川英治文学賞(1991年) 紫綬褒章(1997年) 菊池寛賞(1998年) 文化功労者(2004年) 毎日芸術賞(2008年) 文化勲章(2016年) 叙従三位(2023年・没時叙位) |
ウィキポータル 文学 |
平岩 弓枝(ひらいわ ゆみえ、1932年3月15日 - 2023年6月9日)は、日本の小説家、脚本家。長谷川伸門下。文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。
『鏨師』(たがねし)で直木賞を受賞後、女の生き方を描いた国際色豊かな家庭物や恋愛物、推理物で人気を集め、他方でテレビドラマの脚本家として多くのヒット作を生み出した。その後時代小説に専念。永く活躍している。代表作に『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズなどがある。