掲載時肩書 | 日本画家 |
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掲載期間 | 1990/11/01〜1990/11/30 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1930/06/15 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 60 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 東京美 術予科 |
入社 | 大学助手 |
配偶者 | 松山美知子・同級 |
主な仕事 | 仏教伝来・「金堂壁画」再現、高松塚 古墳模写、バーミヤン、敦煌 |
恩師・恩人 | 小林古径 安田靱彦 |
人脈 | 清水南山(彫金)、山本丘人、奥村土牛、池田勇人、前田青邨、橋本明治、 |
備考 | 原爆・中3 (15歳)、父:入り婿、母:教育ママ |
1930年6月15日 – 2009年12月2日)は広島県生まれ。日本画家、教育者。東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症(白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展に入選する。以降、郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。
1.被爆:中学3年(15歳)、比治山の陸軍兵器補給廠に勤労動員として
午前8時に点呼を受け、本廠から少し離れた材木置き場に駆け足で移動した。そこに着いたのが8時12,13分だったろう。仲間たちは小屋に入り着替えをしていたが、何を思ったのか、自分一人だけは外に出てきれいに晴れた空を眺めていた。と、白い飛行雲を引っ張ったB29が、スーッと上空に入ってきた。そして、上空はるか高いところでパッ、パッと落下傘が開いた。「へんなものが落ちて来るぞ!」と叫びながら、仲間のいる小屋の中に入った瞬間、目の真ん前でマグネシュウムフラッシュをたかれたようにパーッと明るくなった。板張りの粗末な小屋が、大閃光に包まれた。
2.大伯父・清水南山(元芸大教授)の訓戒
東京美術の日本画家予科への入学が決まると、大伯父南山から何項目かの訓戒を受けた。
10年間は絵でお金を貰ってはいけない。日本の古典、東洋の古典の研究を怠るな。何でも一流のものだけに接し、他を見るな。文庫(今の芸大資料館)に毎日通って所蔵品の模写を続けよ。練習だからと言って粗末な道具を使うな。いいものだけを使え、などなど。
ずいぶん厳しい定めだが、これくらいの心掛けがなければやり通すことはできなかったと思う。
そして、一面の焼野原の中で美術の勉強を始めることになった際、大伯父の清水南山は「醜い世の中だからと言って挫けるな。蓮は泥中に見事な花を咲かせるではないか」といって激励してくれた。
3.仏教伝来図:白血病で死を覚悟した作品
三蔵法師は、仏法の真理を極めたいという願望を抑えきれず、国禁を犯して天竺に行く。荒涼とした砂漠を渡り、万年雪に埋もれた険峻を越え、嵐に遭い、常に死と隣り合わせの危険な旅だった。この努力によりおびただしい経典が唐にもたらされ、やがては日本にも伝えられたのである。
苦境にあった自分を三蔵法師になぞらえることによって、救済を願う気持ちが底にあったのだと思う。白血病を背負いながら、死ぬような思いで八甲田山の写生旅行をしてきた後だけに、法師の苦しみがある種の実感を伴って分かるのだった。実感があるからこそこれは描けそうだという気がしてくる。
体の調子は決して良くなかったが気分が乗っていた。あるいはこれが最後の絵になるかもしれないという張りつめた気持ちがあったので、一途に打ち込めたのだろう。でき上がった絵は「仏教伝来」と題し、秋の院展に出品した。
まもなく、新聞の展覧会記事の中で、美術評論家の河北倫明先生や安田靫彦教授からお褒めの言葉をいただき、大変うれしくその言葉が身に沁みました。
4.妻・松山美知子
美知子は早くから日本画を志し、日本美術学校に入り、卒業時には首席だった。昭和28年秋、二度目の院展では二人とも入選したが、彼女は併せて奨励賞も獲得した。首席で卒業、初入選で奨励賞とくれば嫌でも注目される。その彼女が、結婚する段になって敢然、筆を折った。一家に二人の画家は並び立たないという青邨先生の言葉に、「自分がやめます」と彼女は一人で決めたのだ。もちろん例外はあるが、夫婦で描くと女性の方が伸びる。家事や育児を通じて人間的に成長し、時間がない分だけ集中して描くので絵に迫力が出るのだ。そうなると男は焦る・・・。青邨先生はそんなことを懸念したのかもしれない。
平山 郁夫(ひらやま いくお、1930年6月15日 - 2009年12月2日[1])は、日本の日本画家、教育者。位階は従三位。勲等は文化勲章。東京芸術大学名誉教授、文化功労者。
東京芸術大学美術学部教授、東京芸術大学美術学部学部長、東京藝術大学学長(第6・8代)[2]、財団法人文化財保護振興財団理事長、日本育英会会長、財団法人日本美術院理事長、東京国立博物館特任館長などを歴任した。