市川忍 いちかわ しのぶ

商業

掲載時肩書丸紅飯田会長
掲載期間1970/01/30〜1970/02/26
出身地茨城県布川
生年月日1897/01/09
掲載回数28 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
神戸大学
学歴その他竜ヶ崎中
入社伊藤忠商事
配偶者許嫁・医師娘
主な仕事大同貿易、丸紅商店、大建産業(伊藤忠・丸紅分割)、不二越、高島屋飯田と合併、大商会頭
恩師・恩人伊藤忠兵衛、古川鉄治郎、伊藤竹之助
人脈川田重(中学先輩),森長英、小菅宇一郎、桧山広、松尾泰一郎、小島正興、佐伯勇
備考昭和31年3月期、商社ビッグ3に
論評

1897年1月9日 – 1973年11月2日)は茨城県生まれ。実業家。丸紅の初代社長。「正・新・和」の精神で総合商社「丸紅」発展の基礎を築いた。伊藤忠商事に入社、大同貿易を経て、丸紅商店に移る。 1949年丸紅の初代社長に就任。高島屋飯田を吸収、総合商社丸紅飯田(のち丸紅)への転換を果たした。
1966年には大阪商工会議所会頭に就任。

1.伊藤忠兵衛氏との面談印象
大正7年(1918)、就職先を探していると、とりわけ熱心だったのが伊藤忠商事である。メガネにかなった20名ほどが神戸・布引の料理屋「三宅」へ呼んでくれた。そこに社長の伊藤忠兵衛さんが来ておられた。
 当時の忠兵衛さんはまだ33,34歳で若手関西財界人として異彩を放っていた。19歳のとき、先代が亡くなり、以来二代目として店を切り盛り、綿糸布、生糸問屋の間で“西の伊藤忠兵衛、東の茂木惣兵衛”と並びうたわれたものだ。羽織、袴をきちんと着こなし、ほっそりとしたなかなかの美男子、しかし、大家の二代目にありがちな弱さは全く感じさせず、剛毅で自信に満ちた表情だった。商売人というタイプでなく、むしろ知識に飛んだ産業人という印象だった。
 一流料亭で入社試験をやる奇抜なアイデァといい、とてつもなくスケールの大きな人のように思え、ぞっこん惚れこんでしまった。あとで分かったことだが、忠兵衛さんの記憶力にも舌を巻いた。この料理屋で私が話した郷里や中学校のことなどを数年後までちゃんと覚えていたからだ。

2.伊藤忠商事から貿易部門を分離(大同貿易)
大正8年(1919)までは第一次世界大戦の影響で好景気に沸いていたが、翌年3月は戦争景気の反動で、株式、商品など取引所の大暴落が起こった。生糸、絹織物も何もかも値下がりに次ぐ値下がりである。全く様変わりとなり、天井から地下へ逆落としとなった。伊藤忠の屋台骨もグラグラと揺らいだ。
 この立て直しのため、忠兵衛社長が横浜に来られ、伊藤忠では貿易部門を分離して別会社にすることになった。つまりマニラ、ニューヨーク、シアトル、ロンドン、カルカッタ、スラバヤの伊藤忠各出張所を受け持って新会社の大同貿易がスタートしたのである。満州、朝鮮、支那の大陸の出張所は内地の延長ということで、実際にはこれらを除く地域を分離したわけだ。私を含め、横浜支店勤務者は大同貿易に移った。

3.丸紅と伊藤忠の商社分離基準
第二次大戦後になって、私が勤めていた大建産業がGHQの「過度経済力集中排除法」に従って解体されることになった。大建産業の会長を務めていた伊藤竹之助さんから私に、解体した場合、旧丸紅商店の社長に就任してくれといわれた。それに伊藤忠兵衛社長からも積極的に帰るように説得された。
 解体する場合、いったい何社に分ければよいのか・・・まず基本的なことから始めなければならない。大建産業は呉羽紡績と尼崎製釘所を製造部門として吸収していた。これらはそれぞれ分離独立させることにしたが、これは文句なかった。ややこしいのは主力の商事部門をどうするかであった。いろいろあったが、3分割がよかろうという結論に達した。つまり、旧伊藤忠系、旧丸紅系、旧大同貿易系で、伊藤忠は小菅宇一郎氏、丸紅は私、大同貿易は森長英氏がそれぞれ新社長に就任することになった。
 ところが、大同貿易系の人は南方を中心とした外国貿易の関係者が多く内地の商売に疎い。内地取引、管理部門に強い旧丸紅と外国貿易に強い大同が一本になれば、強力なものになる、分割案が最終的に煮詰まった段階で、大同貿易の森社長と私の意見が一致した。忠兵衛、竹之助の両氏もこの構想に賛成してくれた。伊藤忠と丸紅の2分割商権は、綿のれんは伊藤忠、その他の絹、毛、麻、化繊は丸紅で落ち着いた。綿だけで他の全部の扱い高より多かった時代だし、絹、化繊は綿に比べると儲けの薄い商品でもあった。だが、この分け方はそれまでの両社の実績からいえばやむを得ない。昭和23年4月分離独立した。

市川 忍(いちかわ しのぶ、1897年1月9日 - 1973年11月2日)は、日本の実業家丸紅の初代社長。「正・新・和」の精神で総合商社「丸紅」発展の基礎を築いた。

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