掲載時肩書 | 画家・青竜社主宰 |
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掲載期間 | 1959/04/13〜1959/05/07 |
出身地 | 和歌山県 |
生年月日 | 1885/06/06 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | 有楽社 |
配偶者 | 親類の娘 |
主な仕事 | 「実業之日本」「国民新聞社」等挿絵、渡米、洋画→日本画、スケッチ俱楽部、青龍社、新京芸術学院長、 |
恩師・恩人 | 下村観山 |
人脈 | 岡本一平(小1上)、久保田万太郎・芥川龍之介(3中)、石井鶴三、平福百穂、高浜虚子、小林古径、速水御舟、 |
備考 | 俳句 |
1885年〈明治18年〉6月6日 – 1966年〈昭和41年〉4月10日)は和歌山生まれ。戦前の日本画家、俳人。1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げ、独自の道を歩んだ。縦1m85㎝・幅8m38㎝の大画面に展開する、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト。激しくぶつかり合う水と水、波しぶき。壮大な水の世界を描いた『鳴門』は、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とした。大正 – 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
1.第1回文展の審査員
明治40年(1907)、「隣の人」と題して出品したが、これがうまく入選した。このときの応募出品の洋画の総数は129点、うち入選が83点で、この第1回の入選率は後年に比べると、それほどの厳選ともいえないが、その当時としては、従来の私設展覧会にはなかった厳選だといわれた。洋画部で私と一緒に入選した人の中には中沢弘光、和田三造、石井柏亭、小林万吾氏などのほか、私と白馬会研究所以来の親友伊藤善一郎君や、都新聞の外国漫画の模写をやっていた村上天流氏などもいた。
この第1回文展の審査員は洋画家では岡田三郎助、和田英作、中村不折、黒田清輝、松岡寿、小山正太郎、浅井忠、満谷国四郎氏などのほか、学者側から森林太郎(鴎外)、松井直吉、久米一郎、中沢岩太、岩村透氏などが任命されている。
2.洋画から日本画への転換
この動機は、ボストン美術館で見た東洋の芸術の崇高さが心に焼き付いたからであった。油絵から日本画への転換は、私自身の表現の傾向が、当時の洋画の流行的な技法や風潮にマッチしない点もあったが、挿絵に没頭して毎日毛筆を使う時間が多く、自然に毛筆に親しみ、それを使い慣れてきていたし、その毛筆の働きを生命とする日本画に接近していたことも原因していた。こころ細い心機一転だったかもしれない。
翌大正3年(1914)、東京で開催された大正博覧会に私は初めての日本画作品「観光客」を出品した。多分に不安もあったが幸いにも入選した。私はまだ日本画の材料を使いこなすことなど全然知らなかったので、洋画の絵の具での代用方法みたいなもので、自己流の工夫からパステルを粉にして、それにニカワを媒材として使用し、東洋風な画面を試みたに過ぎないが、こんな勝手な方法は誰もやったことがなく、この新手法では従来の日本画にない色感の奥行や一種の照りが出たような気がした。これが評価されたのかもしれない。
3.会場芸術・・一年一作
大正末期になると絵画の中にも漠然ながら社会意識というか何か思想的なものを求める機運も動いていた。同時に会場芸術ということへの関心も一段と高まっていた私は、民衆のための美術行動としては小さく凝り固まるような作品ではなく、大きく展開して民衆の美的興味と想像に訴えるもの、そんな考えからも一年一作の大画面が効果的だと思った。
そして昭和元年(1926)の第1年は「使徒所行讃」、第2年は「一天護持」、第3年は「神変大菩薩」の3年連作を完成し、毎年の院展に出品した。もし最初に失敗すれば一般からの期待も全く失ってしまうので、それだけにこの制作には心魂を傾けた。第一作の「使徒所行讃」が横18尺、縦7尺5寸、当時の展覧会出品作としては大分ケタはずれに大きかったが、その画面に調和する線質とか色価も新しく研究し、自分の主張であった健剛な芸術への樹立への方向に踏み切ったつもりだった。
しかし信念をもってやったこの3年連作の大作主義も十分には理解されず、私はついに美術院同人の席から去り、院展と対抗する形の青龍社展への立ち上げとなりました。