掲載時肩書 | 歌人 |
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掲載期間 | 1962/03/21〜1962/04/15 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1882/01/15 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 住友総本社 |
配偶者 | 和子・後妻俊子 |
主な仕事 | 能、副支配人→降格、支配人、住友常務、東宮の作歌指導、老いらくの恋、歌壇の選者、 |
恩師・恩人 | 佐佐木信綱、名取和作、小倉正恒 |
人脈 | 小山内薫、薄田泣菫、徳富蘇峰、山口誓子、源氏慶太、吉井勇、石田礼助、十河信二 |
備考 | 姉・金色夜 叉モデル、歌手の佐良直美は従曾孫 |
1882年(明治15年)1月15日 – 1966年(昭和41年)1月22日)は東京生まれ。歌人、実業家。漢学者・貴族院議員の川田甕江の三男。会社では住友商人として主に経理畑を歩み、「住友に川田あり」の評判を得ていた。1930年(昭和5年)に理事就任後、同年一足飛びで常務理事に就任、1936年(昭和11年)、小倉正恆の後任として住友の総帥たる総理事就任がほぼ確定していたが、自らの器に非ずとして自己都合で退職した。その間佐佐木信綱門下の歌人として「新古今集」の研究家としても活躍。戦後は皇太子の作歌指導や歌会始選者をつとめた。女優・歌手の佐良直美は従曾孫。
1.和歌への入門
和歌の繊手で抱きしめられたのは、いつが始まりだったか。驚くなかれ13歳の夏だ。われながら早熟の少年で、しかも最初から新古今流の姿のものをそつなく作ったのだから敬服する。小学校の上級に竹柏園の高弟であった安藤直方という人がいたが、その人に作家の手ほどきをしてもらった。父の没後、義母の言うには「ほんとうに歌が作りたかったら、日本一の先生にお習いなさい」と。当時は新派の勃興期で、与謝野夫妻、正岡子規、佐々木信綱などが最も著名であった。ボクはためらわずして竹柏園の佐佐木信綱先生に師事することにした。与謝野夫妻の新詩社は最も優れていたけれど、仲間が悪い。子規は擬古のゴリゴリで若い人間の口に合わない。高崎正風は下手な歌よみだ。
さて竹柏園にはいってみると、予想以上の女護の島だ。才媛ぞろいで、少年の目もくらむばかりだ。ボクはここでたくさんの名士に逢うことができた。一番記憶に残るのは尾崎紅葉山人である。佐々木先生のお供をして横寺町に病床の山人を見舞った。そのとき山人は「日本の小説家で最も偉いのは紫式部、西鶴、そうして馬琴だ」と言った。ボクは馬琴はチョイと案外な気がした。森鴎外先生、上田柳村先生にもあった。
2.東宮の作歌指導を拝命
昭和21年(1946)1月、東宮大夫の穂積重遠博士から手紙で「貴下を殿下の作歌指導役に推薦したから、ぜひお受けしてもらいたい」云々と言ってきた。泉下の父も感泣するだろうと思って、拝諾し、毎月一度、窓から飛び込むような大混雑の列車で上京した。初めてお目にかかった13,4歳の少年の殿下は学習院の制服で現れ「ご苦労」と一言仰せられた。忘れもせぬ2月7日、雪の降った日である。
2か年ほど経て「老いらくの恋」のスキャンダルが表面に出た。新聞に出ないうちに指導役を拝辞すべきだと決意し、上京して東宮大夫に面会すると「後任者は誰にする」という相談だ。ボクは直ちに五島茂君を推薦した。大夫は「思想は大丈夫かね」と質問した。「大丈夫」とボクは保証した。
3.恩人小倉正恒さん
昭和36年(1961)11月20日の暁に小倉さんは大往生の本懐を遂げられた。住友総理であり、国務大臣ともなった経歴は、世人の知る通りである。ボクは住友生活の約30年を終始小倉さんの直属部下で働き、最高幹部の一人まで出世させていただき、今日でもその余恵に浴している。ボクの大恩人である。
小倉さんは寛容の人、将に将たる器の人であった。甘いも酸いも知り尽くしていながら、知らぬふりして黙然としていた。ボクは30年の間に、ただの一度も叱られたことはなかった。ただ、親友の一人となる外交官武者小路公共君が「小倉さんが先日私に、川田は酒癖が悪いと言ったぜ。注意しろよ」と忠告してくれた。
ボクは冷や汗を流した。小倉さんは何もかも知っていたのだが、直接に戒めるのは気の毒と思って、友人を通じて間接に注意したのだ。実に痛い。以後ボクは深酒を飲まなくなった。「老いらくの恋」のスキャンダルに悩んでいたとき、小倉さんはわざわざ北白川の拙宅に来られ、「それは誰にもありがちな私事だ。負けていけない」と慰めてくださった。最後の病床を見舞ったとき、病人は夫人を呼んで「川田君に硯をあげてくれたまえ」と言った。それは小倉さんが80歳のときに住友家の主人から祝いとして下さったものだと、夫人が説明した。ボクはうやうやしく頂戴しながら「形見のつもりだな」と思った。小倉さんは2日後に逝去した。