掲載時肩書 | 第百生命保険会長 |
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掲載期間 | 1985/08/01〜1985/08/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1906/10/06 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 米国ケニオン大学 |
学歴その他 | 立教大学 |
入社 | 川崎貯蓄銀行 |
配偶者 | 見合:有馬寛娘 |
主な仕事 | 第百銀行→三菱銀行,第百生命,福徳証券,財閥解体,日本火災、総合保障保険 |
恩師・恩人 | 斎藤真平 |
人脈 | 弘世現、柏木雄介、西竹一(バロン西)、西村英一、河合良成、川井三郎 |
備考 | 父:川崎財閥二代目八右衛門・日本火災保険社長、母(郷誠之助妹) |
明治39年(1906)10月~2000年没)は東京生まれ。実業家。第百生命保険(現・マニュライフ生命保険株式会)社長。1929年アメリカ・ケニオン・カレッジ卒。87年相談役。
1.アル・カポネ時代に米国留学
私がケニオン大学に留学していた大正14年(1925)から昭和4年(1929)という時期は、米国は禁酒法下にあった。留学中は、丁度アル・カポネがシカゴを牛耳っていたころで、1929年2月14日には、有名な聖バレンタィンデーの大虐殺が起きている。
そんな時代だから酒は貴重品で、どこへ行っても酒を飲めるのが最高のもてなし。私も1年生の頃は1滴も飲まなかったが、勧められてだんだん飲むようになった。事あるごとに、仲間の誰かが150マイル(約240㎞)ほど運転してアルコールを買ってくる。禁酒法時代でもアルコールは内証で売っており、ニューヨーク等に行くと、怪しげなところで小さな窓から出してくれる。それがカポネの資金源になっていたのだ。
手に入れたアルコールと蒸留水を半々に混ぜ、ジンジェネバというジンの香りのする種を入れてかき回し、一晩おいておくとジンが出来上がる。これに水を加えて飲むわけだ。
2.バロン西竹一中佐(死後、大佐に昇進)の思い出
西さんは4歳年上で、私のことを「大公(だいこう)、大公」と呼んで、あちこち引っ張り出してくれた。思い出は、酒を飲んだり、釣りをしたり、と遊んだことばかりだが、随分お世話になった。
父上は枢密顧問官や外務大臣をされた男爵で、11歳で爵位を継いでいるし、大変なお金持ち。少尉、中尉時代にクライスラーや日本では1台しかないと言われた12気筒のパッカードを乗り回し、ロス・オリンピックで乗った名馬ウラヌス号も、陸軍の予算は出せないと言われ、休暇を取ってイタリアまで出かけ、自費で買ってきたほどだ。しかも軍人のくせに髪の毛を伸ばしており、オリンピック優勝の後は、外国でも“バロン・ニシ”と呼ばれ、もてはやされたのだから、陸軍内部では反感を持たれていたのだろう。
再び硫黄島へ戻るという前日、私は世田谷区松原にあった西さんのお宅を訪ねた。西さんは硫黄島で戦死することは既に覚悟されており、ただベストを尽くすだけだ、とおっしゃった。この時に限らず、西さんがグチをこぼすのは聞いたことがなく、天真爛漫で、非常にさっぱりした、今でいえばネアカのいい人だった。
結局、その晩は西さんのところに泊まり込んでしまい、翌朝、奥さんやお子さん方と、玄関でお送りした。それが西さんとの別れだった。それから間もない20年3月、奥さんから硫黄島で戦死の連絡を受けた。大本営の発表では3月17日戦死、ということだったが、後に生き残って復員した人から、17日は内地との無線が爆破された日で、西さんは22日、火炎放射器で片目を失いながら、わずかに残った部下と共に最後の突撃をして亡くなった、と伝えられた。
3.殊勲甲の総合保障保険の開発
保険会社には、どこにもアクチュアリーがいる。高等数学を駆使して保険料を算出したり、保険金額を決めたりする専門家で、「保険計理人」とも呼ばれる。第百生命には経営数理室というセクションがあり、保険計理人はここで新種保険の開発などさまざまな仕事をしている。新生活保険を始め幾つかの画期的な保険にタッチしたのは、34年(1959)に厚生労働省統計調査部計析課長から当社の保険計理人になった菱沼従尹君(後に専務、日本アクチュアリー会理事長)らのスタッフだった。
彼らが活躍し、私の社長時代の42年〈1967〉に開発・発売した「総合保障保険」は、“殊勲甲”であった。この保険は入院給付の対象を、交通事故など災害によるものではなく、病気入院まで含めた総合的な医療保険にしようというアイディアだった。すでに災害入院保障はどこの保険会社でもやっており、それに病気入院も加えようという考えは、誰でも容易に思いつく。だが、それを実行するには極めて困難だった。
言うまでもなく、事故などの災害による入院に比べ、病気入院の数は圧倒的に多い。しかもその当時、病気入院の実態を知る全国的データは整っておらず、保険加入者の入院確率をキチンと予測することはなかなか難しかった。計算を間違えれば保険会社としての経営にかかわることもあり得たのだ。菱沼君らは厚生省や都道府県、大学病院などで詳細なデータを集め、何とか入院確率をはじき出すことに成功した。その結果は、やはり災害入院に比べ病気入院の確率ははるかに多いし高いリスクも増える、というものだった。
社内からも慎重論や反対論もあったが、私は商品化を決断した。リスクは可能な限り回避しなければならないが、まったくゼロにするわけにいかず、問題点は解決可能と判断したからだった。発売結果は、お客様には大好評で、発売後4年間で契約数は23万1千件、契約高は4千2百68億円と好成績だった。