掲載時肩書 | 日産自動車社長 |
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掲載期間 | 1963/09/10〜1963/10/08 |
出身地 | 茨城県水戸 |
生年月日 | 1905/03/01 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 56 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 東京高商 |
入社 | 日本興業銀行 |
配偶者 | 見合地主娘 |
主な仕事 | 日本曹達(出向)広島支店長、日産重工業、日産(日本産業)自動車、労働争議、ダットサン、ブルーバード、セドリック |
恩師・恩人 | |
人脈 | 中山素平・朝海浩一郎・日高輝(同期)鮎川義介(義弟・久原房之介)益田哲夫、笠原剛三、三宅さとる |
備考 | ロックアウト実行 |
1905年(明治38年)3月1日 – 1986年(昭和61年)3月29日)は茨城県生まれ。実業家。日産自動車中興の祖として知られ、同社の社長や会長、日本自動車工業会初代会長、経団連副会長、日経連副会長などを歴任した。プリンス自動車との合併を経て、日産自動車を日本第二の自動車メーカーへと成長させた功績を残した一方で、日産自動車社内の厳しい労働運動に対処するために自動車総連会長の塩路一郎との間で癒着とも称される密接な関係を形成する等の禍根を残したとの批判もある。
1.支店長で広島赴任
昭和21年(1946)3月、広島支店長を命ずという辞令をもらった。支店長はいいが、原爆で戦争の被害地になった広島へ行けというのだから、正直なところうんざりした。まだ寒い季節だった。軍隊外套に長靴、リュックサックに飯盒持参といういでたちで、焼けただれた広島駅に一人降りたのは未明の午前5時だった。
焼けたレンガだけのがらんどうビル、これは商工中金広島支店の無残な姿で、そこに興銀支店の看板がかかっていた。壁の5分の3は板張りで塞ぎ、床はデコボコ、周囲は瓦礫の山だ。これが店かと唖然とした。覗いてみると無人の建物だ。二階にあがると電線は垂れ下がり床には亀裂が走っている。しょうがないので木切れを集めて飯盒で飯を炊いて食べていた。ようやく8時ごろ小使いさんが、異様な姿の私を見て「あんたは一体誰ですか」と問う。「おれは支店長だよ。けさ着いた川又だ」に、小使いさんはびっくりしていた。
2.日産重工業(のちの日産自動車)に赴任
昭和22年(1947)7月、経理担当重役はいなくて、私がその名目で常務として入ったのである。さて初めて出社していくと、労働組合と賃金交渉の真っ最中なので重役は誰もいないという。「すぐ交渉の席についてください」「冗談じゃない。ぼくは今日初めて出社したばかりじゃないか」「でも皆はあなたの来るのを待ってたんです。経理担当の常務が来るというので、来たら早速、賃上げを頼もうと待っていますよ」と。参った!
翌日から早速経理担当常務としての私の仕事が始まった。手形を銀行に割り引いてもらいに行くのだが、これが実に辛い仕事だった。一昨日までは興銀の支店長だった者が、今日は銀行の支店長前に行って頭を下げる立場になったわけだ。体裁が悪いというか、どんな要領で話すのかも見当がつかなかった。
3.労働争議でロックアウト(工場閉鎖)を実行
昭和28年(1953)5月、私は慢性盲腸の手術を受け、静養のため湯河原に行っていた。例によって組合から要求が出された。もの凄い額のベース・アップ要求であった。経験15年で3万円というのが最低給で、これをその時の平均基準賃金手取り約1万9千円と比較すると、約1万1千円の賃上げとなり、全要求をまとめると平均手取り約1万4千5百円、税込み約2万3千3百円の増額であった。
今度はいい加減に妥結するわけにはいかない。いま組合を徹底的に叩かなければ会社の前途は絶対に危険になる。私はそこまで思いつめた。そこで私たちは最後にはロックアウトを決断したのだった。ロックアウトは経営者に認められている戦術であるが、これを実際に行使することは容易にできるものではない。やった以上は文字通りのるかそるかで、いい加減な態度では妥結できない。負ければ経営者は総辞職を覚悟の背水の陣である。
8月5日朝、前夜に工場に木材や鉄条網を持ち込み、ロックアウトを実行に移し宣言した。会社の内部から新しい批判勢力を中心とする第二組合結成が台頭したのはその後のことである。第二組合の勢力が大きくなると、会社と第二組合との交渉が始まり、賃上げは認めないことを前提として、一連の妥結条件を結び、就業を認めたのである。これがきっかけとなってついに第一組合も折れてきて9月の末近く同じ条件で妥結するに至り、4か月にわたった争議は漸く終止符を打ったのだった。
日本の労働組合は企業内組合であるから、いかに激しい組合でも、裏を返せば従業員であり、企業が繫栄しなければ困るという考えがある。そういう性格から、他社の組合も日産の新しい労使関係―それもあの数年間の血と汗の闘いからようやく勝ち取ったそれに見習うことになったのであろう。そしてそれが、その後の自動車産業の成長の非常な力となっているのは疑いを入れない。こういう見方からすると、あの28年の日産の労働争議は、日本の労働争議史上のみならず自動車産業の歴史の上でも特筆だと思うのである。
かわまた かつじ 川又 克二 | |
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生誕 | 1905年3月1日 日本 茨城県 |
死没 | 1986年3月29日(81歳没) |
国籍 | 日本 |
民族 | 日本人 |
出身校 | 東京商科大学(現・一橋大学) |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 20世紀 |
活動拠点 | 日本興業銀行 日産自動車 経団連 日経連 |
肩書き | 日産自動車中興の祖 |
川又 克二(かわまた かつじ、1905年(明治38年)3月1日 - 1986年(昭和61年)3月29日)は日本の実業家。日産自動車中興の祖として知られ[1]、同社の社長や会長、日本自動車工業会初代会長、経団連副会長、日経連副会長などを歴任した[2]。