掲載時肩書 | シマノ会長 |
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掲載期間 | 2005/07/01〜2005/07/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1934/11/27 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶応 |
入社 | 東京日産 販売 |
配偶者 | 自転車同業者娘 |
主な仕事 | 島野工業、米国シマノ行脚、米国27年間、社内公用語に英語、3段変速、10変速、釣具、山バイク、海外進出、ゴルフX |
恩師・恩人 | 父親&兄 |
人脈 | 石原裕次郎(大学)、尚三(長兄)敬三(次兄)、ランス・アームストロング |
備考 | 兄弟3人4脚 |
1934年(昭和9年)11月27日 – 2020年(令和2年)7月3日)は大阪府生まれ。日本の実業家。島野工業(現・シマノ)第4代・代表取締役社長、会長、最高顧問。公益財団法人日本自転車競技連盟理事。社団法人自転車協会理事長を経て名誉会長。2005年日本国際博覧会評議員。米国市場を攻略し、シマノをイタリア・カンパニョーロやドイツ・ボッシュと並び称される世界的な自転車部品メーカーに育てた 。また、マウンテンバイク用部品のパイオニアとして知られる。
1.チーム・シマノの精神
一度、息子に聞かれたことがある。「島野の3兄弟は、みな人一倍、競争心も個性も強い。なのに喧嘩もせず、よくここまでやってこれた。どうしてなのか」と。私はこんな風に答えた。
三人でうまく分業ができた。お互いに「あいつならやれる。やれるだろう」との信頼があった。そして親父さんに言われた「兄弟げんかをしない」との原則を守った。いまシマノでは、「チーム・シマノ」と言う。日本も海外のシマノも平等で自由に発言でき、どこの能力も製品・サービスも高いレベルでありたい。こんな一体感への思いを表している。
親父さんの好きな言葉は、「和して厳しく」だった。「仲良く」と同時に、切磋琢磨を怠らず、特に「自分に厳しく」といった。私たち兄弟もシマノという企業にも、この精神は伝わっていると思う。
2.30歳で米国シマノ社長に
ちょうど40年前(1965)の7月1日、ニューヨークの朝はよく晴れていた。私はこの日設立したばかりの米国シマノに初出社した。島野工業と言っていたシマノが、初めて海外に設けた販売拠点である。社長を任された私は30歳だった。
憧れていた米国だが、この広い国で自分たちの製品がどこまで売れるのか。もちろん重圧感はあった。しかし、それ以上に、「売ってやろう」と意気軒高だった。
小さな本社は五番街にあった。まだ日本の大手メーカーでも、現地法人を設け、ニューヨークにオフィスを構えているのは、松下、ソニーなど数えるほどしかなかった。当時、シマノは国内最大手の自動車部品メーカーだった。と言っても上場前の大阪の中堅企業である。果敢にも米国に出ていくのは、私たちが若かったし、創業者以来の「世界へ」という思いがあったからである。
3.「ツール・ド・フランス」の7連覇を支える
今年(2005)のツール・ド・フランスは7月24日、米国のランス・アームストロングの総合優勝で幕を閉じた。ランスは大会7連覇、前人未到の大記録である。レースの主な5つの賞は、すべてシマノの器材を着けた自転車が独占した。
ツール・ド・フランスは1903年から開催、ジロ・デ・イタリア(イタリア)、ヴェルタ・エスパ―ニャ(スペイン)と並ぶ世界3大自転車ロードレースの一つである。日本での知名度は、これが一番だろう。毎年7月、約3週間にわたってフランス全土を舞台にしてレースを競う。コースは全長3000~4000km、アルプス越えあり、最も過酷なレースと言われる。出場できるのは世界のトップクラスの選手だけ。過去、日本人で出場したのは一人だけである。
7連覇を成し遂げたランスと私たちの縁は深い。彼が10代で、トライアスロン選手として頭角を現し始めて頃からの付合いである。私たちは当時から注目、彼の自転車に部品を提供していた。闘争心溢れる彼は、ガンに侵されながらそれを克服、99年に初めてツールを制し、「奇跡の復活」と言われた。この99年が、私たちにとっても初のツール優勝だった。そして彼の優勝に我々は胸のすく思いだった。
氏は‘20年7月3日、85歳で亡くなった。この「履歴書」登場は’05年7月の70歳のときでした。いま再読してみると父親・庄三郎氏の教育(指導)が素晴らしかった。
1.切腹劇事件
小学生時代はわんぱくで兄弟げんかが絶えなかった。あるとき次兄(敬三)と喧嘩した日、家に戻ると母親から「風呂に入り、白い浴衣に着替えなさい」といわれる。言われるままに風呂に入り、着替えると座敷に連れていかれた。床の間に面して、二振りの短刀が置いてあって、その前に座らされた。座ると、親父さんが後ろに来て、「お前たちみたいに、毎日兄弟げんかする奴は家に要らない。生きている必要はない。二人で切腹せい。俺が介錯してやる」という。親父さんは、後ろで刀を抜いている。恐怖でいっぱいになった。
敬三さんと声を交わす余裕はなんかない。短刀にも触れなかった。さわれば切られると思った。二人で懸命に謝ったのは確かだ。必死に誓って、やっと放免された。
2.父と死別前の1カ月間
シマノに戻り経理課に配属されたが、そろばんは下手、記帳も間違う。課長さんには、「あんたが入って仕事が増えてかなわん」とグチを言われた。家で養生している親父さんの食を進めるため、夕食の相手をするのが、私の大事な役目だった。仕事を終えると、すぐに家に帰った。
食事をしながら親父さんは、「今日、朝8時から夕方5時までに見聞きしたことを話してみい」と言う。「何や、そんなことしか見てないのか」と言われるのがほとんどだった。
小言を言われないよう、仕事の合間や終わってから、階下の工場を見に行った。だれかれをつかまえ、製品や工程のことを聞く。日々、新しい知識が増え、若いから吸収もできる。これは楽しかった。親父さんは三男坊に教えられることは教えておこうと思ったのだろう。亡くなるまでの約一か月、こんな生活が続いた。
3.親父さんの口癖
親父さんは「海の向こうには必ず行くんや。世界の島野になるんや」と言っていた。私たち兄弟3人は、こんな言葉を耳にしながら育った。「お前たちに、大したものは残してやれない。しかし、一生懸命仕事のできる場だけは残しておいてやる」。やはり、よく言われた言葉である。
親父さんの好きな言葉は、「和して厳しく」だった。「仲良く」と同時に、切磋琢磨を怠らず、常に「自分に厳しく」と言った。私たち兄弟にもシマノという企業にも、この精神は伝わっていると思う。
4.思いやりの人でした(妻への感謝)
妻は小さい時からピアノの勉強をしていた。井口基成さんなどに師事、芸大を卒業後、プロのピアニストを目指していた。しばらく付き合い、1961年5月、私たちは結婚した。彼女はピアノへの道を断念することになった。一人の人間の夢を犠牲にして、私は幸福を手にした。
しまの よしぞう 島野 喜三 | |
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生誕 | 1934年11月27日 大阪府堺市 |
死没 | 2020年7月3日(85歳没) |
出身校 | 慶應義塾大学経済学部 |
職業 | 実業家 |
肩書き | シマノ第4代社長 |
配偶者 | 島野郁子 |
島野 喜三(しまの よしぞう、1934年(昭和9年)11月27日 - 2020年(令和2年)7月3日)は、日本の実業家。島野工業(現・シマノ)第4代・代表取締役社長、会長、最高顧問。公益財団法人日本自転車競技連盟理事。社団法人自転車協会理事長を経て名誉会長。2005年日本国際博覧会評議員。米国市場を攻略し、シマノをイタリア・カンパニョーロやドイツ・ボッシュと並び称される世界的な自転車部品メーカーに育てた[1] 。また、マウンテンバイク用部品のパイオニアとして知られる[2]。旭日中綬章受章。
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