掲載時肩書 | 大阪大学学長 |
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掲載期間 | 2000/09/01〜2000/09/30 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1939/05/07 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 61 歳 |
最終学歴 | 大阪大学 |
学歴その他 | |
入社 | 阪大助手 |
配偶者 | 1下医師 |
主な仕事 | 米国留学、細胞工学センター、IL6(サイトカイン=情報伝達物質で最重要の働き)の発見、学長、阪大ニューズレター |
恩師・恩人 | 山村雄一教授(仲人)、Robert Good師、石坂公成師 |
人脈 | 本庶佑(IL4)、早石修、谷口維紹、岡田善雄、吉崎和幸、審良静男 |
備考 | 父村長の息子、母町長の娘 |
1939年(昭和14年)5月7日 – )は大阪生まれ。免疫学者。大阪大学名誉教授、第14代大阪大学総長。1970年(昭和45年)から4年間米国ジョンズ・ホプキンス大学留学。帰国後、第三内科助手、昭和54年医学部病理病態学教授、1983年(昭和58年)細胞工学センター教授を経て1991(平成3)年より第三内科教授。この間一貫して免疫学の研究にとりくみ、Bリンパ球増殖、分化機構を解明し、平野俊夫とともにインターロイキン6(IL-6)を発見する。インターロイキン-6(IL-6)の発見者であり、免疫学の世界的権威として知られる。
1.医学知識の習得(機械的暗記に嫌気)
「安保」に世情が騒然としていた1960年(昭和35)、大阪大学教養部から中之島の医学部に進んだ。医学部の生活は解剖から始まった。午前中に解剖学の講義を聴いて、午後に実習する。講義では骨の名前、その骨についての突起や穴の名前を徹底的にラテン語で覚えさせられる。その数は数千に及んだ。
これらの知識を習得することは大事なことには違いない。例えば頭蓋底という頭蓋の底部の骨にはさまざまな穴があり、神経や血管が脳に通じている。交通事故で頭部に傷害を負った患者が病院に運び込まれたとしよう。その際、どの種の神経がどの穴を通っているかを知っていれば、誤って神経を切断することもない。適切な治療をするために必要な知識だ。しかし機械的に、脈絡もなく専門用語を覚えるのは退屈だ。
2.インターロイキン6 (IL6)の探究
細胞工学センターが発足して2年後の1984年(昭和59)、頼もしい同僚がやってきた。阪大が癌研究会癌研究所から招いた谷口維紹教授だ。当時36歳。遺伝子ハンターとして名前を轟かせていた気鋭の研究者である。私たちはTリンパ球がBリンパ球に向かって放出する2つの情報伝達のうち、標的をインターロイキン6(IL6)に絞り遺伝子を捕えようとしていた。研究室には熊本大学から復帰した平野俊夫助教授や菊谷仁(現阪大教授)、村口篤(現富山医科薬科大教授)の両助手、大学院生の甲賀哲也君(現熊本大教授)らがいた。
現場の研究は平野助教授を中心に極微量のIL6分子の精製から始まった。何百リットルにも及ぶTリンパ球の培養液から、百万分の一gの蛋白質を精製する気が遠くなるような作業だ。次に、どんな種類のアミノ酸がどう並んで、どのたんぱく質を構成しているかを分析する。作業は配列を解明する達人、阪大蛋白研究所の綱沢進助手(現宝酒造)にお願いした。
1986年8月初旬、「ネイチャー」の編集部から朗報が届いた。論文は掲載されるという。IL6の遺伝子の捕捉では私たちが世界で一番乗りを果たしたのだ。プロ野球の優勝祝賀会のように頭からビールをかけあい、仲間たちと祝った。
3.インターロイキン6 (IL6)の価値
1986年に私たちが捕まえたIL6は、文字通りインターロイキンの六男坊であるにもかかわらず、長男から五男を差し置いて際立った大きな存在になった。なぜ六男に関心が集まったのか。それはBリンパ球という免疫細胞に抗体を作らせるための単なる情報伝達分子とみなしていたIL6が、実は私たちの予想をはるかに超えて、いろいろな場所で多彩な働きをしていたからだった。
実例を挙げると、IL6は骨髄腫(ミエローマ)を増殖する因子と関わっていた。また、肝臓にも影響を及ぼしていた。人間の体は、どこかで炎症などの病気が起こると肝臓に急性期たんぱく質という特殊なたんぱく質を作らせて異変に対処しようとする。その際。このたんぱく質を作れと指令を出す分子の正体もIL6だった。そのうえ、私たちは手足の関節に深刻な炎症が起きる慢性関節リューマチの患者の患部でIL6が大量に分泌されていることを突き止めた。IL6は私たちの浅薄な予想を見事に裏切り、免疫だけでなく生体のほぼすべてを営みの場とする“超分子”だったのである。