岡野喜太郎 おかの きたろう

金融

掲載時肩書駿河銀行頭取
掲載期間1957/09/29〜1957/10/13
出身地静岡県青野
生年月日1864/05/09
掲載回数15 回
執筆時年齢95 歳
最終学歴
師範学校
学歴その他沼津中学
入社貯蓄組合(自)
配偶者記載なし
主な仕事10銭貯蓄、貯蓄組合→根方銀行→駿東実業銀行→駿河銀行、一円貯金励行
恩師・恩人父親
人脈伊東要蔵、小山田信蔵、西沢善七、鈴木良作
備考代々名主、唐人お吉、恩:父母教育
論評

1864年5月9日(元治元年4月4日) – 1965年(昭和40年)6月6日)は静岡県生まれ。銀行家。スルガ銀行創設者。1938年(昭和13年)には富士市の大昭和製紙(現・日本製紙)の取締役にも就任。岡野は1957年(昭和32年)まで62年間も駿河銀行の頭取を務めた。この間に関東地震に伴って発生した根府川駅列車転落事故によって妻と娘を失い、後に根府川駅近くに関東大震災の犠牲者を悼む五輪塔を建立している(→根府川駅列車転落事故)。静岡県屈指の実業家であった。

1.唐人お吉の真相
安政3年(1857)、父彌平太25歳のとき、日米通商条約により米国領事ハリスは下田に来て、玉泉寺に領事館を開いた。わが方ではこれに対応するため、同地に貿易奉行所を置き菊名仙之丞が奉行に任ぜられ、父も手伝い随行した。唐人お吉については巷間いろいろ脚色された物語が伝えられているが、父が後年私に語ってくれた真相はこうである。
 ハリスはつれづれなるままに、女房を一人世話してもらいたいと奉行所に申し込んできた。奉行所では適当な候補がなく、処置に困っていると、伝え聞いたお吉が、自ら進んでハリスのところにやってくれと申出た。お吉は尾張国渥美半島の漁師の娘で、下田で飲み屋の女をしていたのである。とにかくお吉は、表向きには韮山の代官江川太郎左衛門の娘分ということにして正式に豪華な結婚式を挙げたのである。その時は奉行に随行して、彌平太も席に連なったという。「だからお吉は、世間でいうように泣きの涙で犠牲になったのではなく、立派なハリス夫人になったんだよ」そういって、華麗を極めたその輿入れの模様を、しばしば私に聞かせてくれた。

2.師範学校を退学し青年農夫に
明治17年(1884)秋の暴風雨で作物は凶作となり、飢饉の田畑に小作農は路頭に迷うことになっていた。このような状況のもとで、私はもう安閑として机にかじりついている気がしなくなった。明治18年の秋、私は徴兵逃れのことを打ち忘れ、自ら乞うて学校を退き家事を手伝って、わが家の危機を乗り越えるとともに、村の窮乏を救うために努力したいと決心した。村人の多くは岡野家の小作人であるから、村人の窮乏を救うことは、またわが家の危機を克服することでもあった。
 「間もなく卒業するのに、今やめなくてもいいじゃないか」と母親は、自分が先になって心配して師範学校へ入学させた関係もあり、特に退学を惜しんだが、私の決心は動かなかった。こうして私は朝早くから田畑に出かけ、暗くなるまで鍬を振るう青年農夫となった。この飢饉のさ中に、この貧乏村が立ち直るには、世間なみのことをやっていたのではだめである。一段と働き一段と節約するのでなければ、浮かび上がることはできないと私は固く信じた。だから肥桶を山の畑に担ぎ上げるにも、馬に4樽ずつ付け、馬方にも2樽担がせ徒男(かちおとこ)二人に2樽ずつ、自分も2樽ずつ担いで坂道を登っていった。しかも男衆がやると日に4,5往復ところを、私がやると6,7往復できた。

3.静岡銀行との合併命令に反対を貫く
昭和17年(1942)5月に金融業整備令が公布され、その12月には三井銀行と第一銀行が合併して帝国銀行となったのを手始めとして、東京を始め、全国にわたり合併は続々強行され地方銀行は1県1行というのが政府の方針であった。このため昭和16年、普通銀行186行あったのが20年には61行となった。
 そのころ静岡県の銀行は駿河、伊豆、静岡(三十五銀行、静岡銀行、遠州銀行が合併して静岡銀行に)、清水の4行に過ぎなかった。突然大蔵省から呼び出しが来て、銀行課長から「静岡銀行と合併せよ」という話が持ち出された。しかし私はきっぱりと合併を断わった。すると「あなたは、この重大な国策に反対するのですか」と声高に言われたが、私は静岡銀行との合併は絶対に承服できません。それでもやるというなら、私は駿河銀行を解散します。その方が国家、株主、預金者のためです」と、もう決死の覚悟だった。

岡野 喜太郎
岡野喜太郎の像。沼津市の岡野公園にある。(2022年11月)
生誕 1864年5月9日
駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)
死没 (1965-06-06) 1965年6月6日(101歳没)
職業 銀行家
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岡野 喜太郎(おかの きたろう、1864年5月9日元治元年4月4日) - 1965年昭和40年)6月6日)は、駿河国駿東郡青野村(現・静岡県沼津市青野)出身の銀行家、静岡県多額納税者[1]スルガ銀行創設者[2][3]。沼津市名誉市民[2][3]。静岡県屈指の実業家であった[4]

  1. ^ 『人事興信録 第12版 上』オ217頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月12日閲覧。
  2. ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「meiyo」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  3. ^ a b 岡田和彦、増山祐史、佐々木凌 (2018年9月13日). “けいざい+ スルガ・ショック 中 地元の名門失墜に動揺”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 朝刊 9 
  4. ^ 『人事興信録 第4版』を121頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年11月12日閲覧。
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