掲載時肩書 | 東映相談役 |
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掲載期間 | 2002/09/01〜2002/09/30 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1924/03/02 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 広島高 |
入社 | 東横映画 |
配偶者 | 高校3年時・友 |
主な仕事 | 「きけわだつみのこえ」、3社合併>東映、 「ひめゆりの塔」、「時代劇」錦之助、千代之介、橋蔵、テレビ、任侠>やくざ路線 |
恩師・恩人 | マキノ光雄(牧野省三次男) |
人脈 | 桜田武(同郷)、氏家斉一郎、 片岡千恵蔵、市川歌右衛門、ひばり・田岡一雄、内田吐夢 |
備考 | 叔父に 養子、柔道4段 |
1924年3月2日 – 2011年5月9日)は広島生まれ。映画プロデューサー。東映・東急レクリエーション社長、東映会長、同名誉会長、同相談役を経て2006年7月から再び東映名誉会長。東映”中興の祖”で、松竹の城戸四郎、東宝の森岩雄が一線を退いてからは「日本映画界のドン」であり、戦後日本の娯楽産業を創った人物の一人である
1.きけ、わだつみの声(日本戦没学生の手記)・・映画化
昭和23年(1948)4月に製作部の進行係から進行主任に昇格した。これを機に、前から温めていた映画のアイディアを実現したいと思った。早速、当時ベストセラーになっていた「日本戦没学生手記‐きけわだつみの声」の映画権を買った。しかし、松田定次監督、片岡千恵蔵、ことに月形龍之介の重鎮が大反対した。そこで僕は京都に来た黒川渉三社長に直訴に及んだ。すると「岡田君がここまでやる、というのだから、マキノ光雄君、もういっペん検討したら」と言ってくれ、「ただし、岡田君、予算は1200万でやれ」といわれた。
当時は千恵蔵さんの映画が1500万以上かかっていた。直感的に「ロクなもんはでけんな」と思ったが、「はい、やります」というと、みんなびっくりした顔で僕を見た。
2.スター錦之助誕生・・二本立て興行
昭和28年(1953)に欧米旅行から帰った大川博社長は、翌29年から東映の作品だけの二本立て興行、いわゆる全プロ二本立て体制を表明した。この考えは、東映だけで二本立て興行を確立すれば、専門館を増やせ、アキレスけんだった興行面を強化できるとし、上映時間が1時間に満たない東映娯楽版シリーズを発案した。
これが爆発的に大ヒットした「笛吹童子」三部作で、新人の中村錦之助(のち萬屋錦之助)、東千代之介を一躍、スターの座に押し上げ、「時代劇の東映」の看板を確立させることになった。
3.美空ひばりさんの親代わりは山口組三代目
ひばりさんとは年3本1千万円という破格の出演契約を結んだ。彼女の側からもう一遍、話し合いがあるというので、マキノさんと製作部長、それに僕が京都・木屋町の旅館に行った。ひばりさんとお母さんの加藤喜美枝さん、福島さんともう一人初対面の男がいた。「田岡です」。山口組三代目でひばりさんの親代わりであった。「今後は全部、私がやることになりましたから、今日は基本的な問題だけ決めたい。まず条件のひとつ、タイトルロールはどうなりまんのや。当然、一番右でっしゃろな」。マキノさんは困ったような顔で僕を見た。とっさに「それはできません」と言うと、「なんでや」。三代目はジロリと僕を凝視した。
「いつもひばりさんが右だというと、錦之助は一本ぐらいはともかく、あとは組みませんよ。千代之介だって誰だって、スターならそう言いますよ。これはケース・バイ・ケースで行きましょう」。「なに、ケース・バイ・ケース?これはええ言葉が出たな。どうする、お母さん、それでええか?」 その時、ひばりさんが「いいわよ。岡田さんのいう方が当り前よ。私は東映の看板俳優の人たちと共演したくて契約したのだから」と言ってくれた。お母さんも一も二もなく「いいわ」。最大の難関は、彼女の毅然とした態度で通過できた。
4.高倉健がスターに・・任侠路線で
昭和40年(1965)1月、高倉健と鶴田浩二主演でヒットした「日本侠客伝」は、マキノ雅弘監督、俊藤浩滋プロデューサーによって企画された作品だ。当初、錦之助さんが主役であったが、役者の組合の理事長に担がれて会社と争議中だったので、遠慮してワキにまわった。代役の健さんは、このあと東京撮影所で撮った「唐獅子牡丹」の主題歌が印象的な「昭和残侠伝」シリーズで大スターの地位を確立する。組合問題がなかったら、もしかしたら錦之助さんは任侠路線のスターになっていたかもしれない。
岡田 茂(おかだ しげる)