掲載時肩書 | 山階鳥類研究所理事長 |
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掲載期間 | 1979/04/26〜1979/05/25 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1900/07/05 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 陸軍士 官学校、北海道大学 |
入社 | 陸軍 |
配偶者 | 酒井忠道伯爵娘 |
主な仕事 | 標本採集(南樺太、千島、朝鮮、ミクロネシア、台湾、満州、ロシア、南洋諸島)、山階鳥類研究所、鳥類の不妊性、日本鳥類保護連盟、バードウィーク |
恩師・恩人 | 田中茂穂教授、小熊捍教授、オースチン少佐 |
人脈 | 武見太郎、井上恒成、宇垣一成、折居彪二郎、山田信夫、賀屋興宜、牧野作二郎、井出一太郎 |
備考 | 母の妹(大正天皇の皇后) |
1900年〈明治33年〉7月5日 – 1989年〈平成元年〉1月28日)は東京生まれ。旧皇族。日本の鳥類学者。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第二王子。旧名:芳麿王。山階鳥類研究所の創設者。爵位は侯爵。学位は理学博士(北海道帝国大学)。皇室の内規に従って臣籍降下を願い出て、1920年7月24日、大正天皇から山階の家名と侯爵の爵位を与えられる。陸軍砲兵中尉となるが、動物学研究の望みを断ち難く、軍を退役する。その後、鳥類の染色体の研究に取り組み、1947年(昭和22年)に鳥類の分類に染色体による分類法を導入して、国内外から高い評価を得た。戦後のタンパク質不足から、文部省から「ニワトリの増殖」について研究委託を受け、多産で肉質がよいニワトリの品種改良にも取り組んだ。鳥類の保護にも大きな熱意を注ぎ、日本鳥学会会頭、日本鳥類保護連盟会長、国際鳥類保護会議副会長、同アジア部会長等を歴任した。
1.自刃前の乃木将軍の来訪
明治40年(1907)に学習院初等科に入学した。当時の学習院長は乃木希典将軍であった。乃木院長は、ふだんは目白にいて、時々、四谷に来て5,6年生に木剣体操をご自分で教えていた。木剣体操というのは、院長が考案されたものらしく、木剣を振り回して体操するので、生徒にとってはいささか持て余し気味だった。
乃木院長が突然私の家を訪れたのは、明治45年9月の7,8日ごろであったろうか。明治天皇が7月30日に亡くなり、ご大葬が行われる数日前であった。中等科に行っていた兄と初等科6年生だった私に話をなさるとともに、山鹿素行の「中朝事実」という難しい漢文の本を手渡して帰られた。「中朝事実」というのは、神道と皇道とを論じた書で、寛文9年(1669)に成ったものだが、当時の私には何の本かわからなかった。
乃木院長が静子夫人とともに明治天皇を追って自刃したのはご大葬当日の9月13日午後8時であった。私たちは全くそれと気づかなかったが、その日ひそかにお別れにおいでになったのだろう。
2.鳥類の標本づくり
鳥類を研究する時、生きた鳥がいつも手元にあればそれに越したことがないが、そういうわけにはいかない。そこで標本が必要になる。標本というのは鳥の肉を取り、頭蓋骨と四肢の骨以外の骨も取って皮と毛だけにした。いわば鳥のぬいぐるみである。これを寝たような形にして保管する。標本採集者として国際的に有名だった折居彪二郎氏に狩猟採集と標本づくりをお願いした。
採集者は普通、その調査地に1,2年住み込んで鳥を採集し、すぐ標本にする。ことに南洋では朝撃った鳥は、昼にはもう腐ってしまうので、午前中に標本にしてしまわなければならない。午後撃ったものは夕方のうちに標本にする。まず内蔵、脳などは取り去ってホルマリン漬けにし、肉や皮下脂肪など腐敗するものは取り除き、骨格も別にホルマリンに漬ける。頭蓋骨と骨付きの皮だけの鳥に薬品処理を施して標本とし、標本及びホルマリン漬けの骨格、内臓などを依頼者に送る。私の方は送られてきた内蔵の内部を調べて、どんなものを食べているのかなどを調査するのである。
折居氏によって標本採集したのは、南樺太、北千島、朝鮮半島、ミクロネシア、台湾、満州で、他の採集者では、小笠原諸島、伊豆七島、南千島、琉球列島の他、ロシア領北樺太、フィリピン、セレベス、ニューギニアなどである。こうした基本調査の後、私が現地に出かけていく。この旅行には妻の寿賀子も同行し、生態の観測やスケッチを担当してくれ、研究の上でも私の右腕となってくれた。
3.ニワトリの増産に協力
終戦直後、文部省からの委嘱で鶏の増産研究をすることとなった。日本中がたんぱく質の不足がひどくなったからだった。山階鳥類研究所で、純粋度の高い二羽の鶏をかけ合わせると、丈夫で成長が早く、体重も大きなヒナができるのを利用し、これを人工授精でどんどん作り、さらによく卵を産む品種改良の作業を進めた。これが成功した後、アヒルとバリケンの雑種、ドバンも作った。台湾から種鳥を取寄せ、人工授精を利用して少数の種鳥から多数のヒナを作ることに成功したのだった。
芳麿王 山階芳麿 | |
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山階宮家・山階侯爵家 | |
山階芳麿(昭和初期) | |
続柄 | |
身位 | 王 → 侯爵(華族) → 制度廃止 |
敬称 | 殿下 → 閣下 → 制度廃止 |
出生 | 1900年7月5日 日本・東京府東京市麹町区 |
死去 | 1989年1月28日(88歳没) 日本・東京都 |
埋葬 | 西多摩霊園 |
配偶者 | 酒井寿賀子 |
子女 | 山階芳正(養子) |
父親 | 山階宮菊麿王 |
母親 | 菊麿王妃範子 |
山階 芳麿(やましな よしまろ、1900年〈明治33年〉7月5日 - 1989年〈平成元年〉1月28日)は、日本の旧皇族。日本の鳥類学者。山階宮菊麿王と同妃範子(先妃)の第2王子。旧名:芳麿王。山階鳥類研究所の創設者。階級は陸軍中尉。位階勲等は正三位勲一等。爵位は侯爵。学位は理学博士(北海道帝国大学)。生前に受けた栄誉及び表彰歴としては第1級ゴールデンアーク勲章受勲及びジャン・デラクール賞受賞などがある。